お家ごと潰された!比企能員の乱とは何か?

どうも、りかちゅうです!1203年にある人間がいなくなります。その名も比企能員です。理由は北条家との権力争いに負けたからです。正式にいうと時政にはめられたからなんですけどね。まあ、ハメられるのも無理ないくらいに争いがあったのは事実なんですけどね。なぜなら、北条も比企も源氏との繋がりが強かったからです。どっちの方が強いと言われると難しいですけどね。ここまで来ると両家とも権力を持ちたいと思うものです。それ故に戦いました。結果としては比企家が負けました。その争いを比企能員の乱と言います。では、どんな戦いだったのか?今から話したいと思います!

比企能員とはどんな人?

比企能員の乱というならば比企能員のことを知っといた方がいいと思います。ですので、まずは比企能員の乱について話したいと思います!

比企能員とは源頼朝の乳母こと比企尼の甥です。比企尼は頼朝が流罪になっていた時から頼朝に協力をしていました。ですので、元から源氏とのつながりが強かったです。具体的には比企能員は妻と共に頼朝の嫡男の源頼家の乳母父・乳母となり、源頼家の養育・後見をしました。また、比企能員の娘こと若狹局は源頼家の側室となりました。このように、ひたすら源氏とのコネを作っていました。

ですが、それを嫌に思う家がありました。北条です。北条は政子が頼朝と結婚しました。それ故に比企同様源氏とのつながりはあります。北条だって今後は力を持ちたいとなるはずです。それ故に頼朝がいなくなってから対立しました。そして、比企側は負け、比企能員はいなくなりました。

※詳しいことはこちらの記事に書かれています!

北条に滅ぼされた! 比企能員とはどんな人?

 

比企能員の乱の経緯

以上が比企能員の乱です。北条とのバトルがあった人ということを覚えておいてください。なぜなら、比企能員の乱はその関係の影響で起こされたものだからです。では、どういう経緯だったのか?

1.北条と比企の関係

比企家と同じように北条家にも源氏との繋がりはあります。北条時政の娘こと政子は、頼朝の妻です。もちろん、源頼家もその2人の子です。また、源平合戦のときに真っ先に味方したのも北条家です。また、1192年には政子が源実朝を産んだ際に政子の妹こと阿波局が乳母となりました。

一方、比企家は先ほども述べたように頼朝が生まれた時に乳母となったり、頼朝が流罪になっても支援していました。もちろん、北条家と同じように挙兵の時も協力しました。また、源頼家の乳母や側室なども比企家の人間だったり、1198年に源頼家の側室こと若狭局(比企能員の娘)が一幡を産みました。この子は長男なので未来の将軍でした。ですが、この子は殺されます。

このように、北条家も比企家も源氏との関わりは強いです。それもあって、頼朝がいなくなってからはどちらが勢力あるかと対立していました。

2.源頼家の抵抗

1203年5月、源頼家は源千幡の乳母・阿波局の夫こと全成を謀反の疑いで捕縛し殺害しました。では、なんでそんなことが起きたのか?全成とは頼朝の弟で政子の妹である阿波局と結婚しました。それで、全成は時政と義時と共に政子が産んでいた源実朝を次期将軍にしようと考えていました。となると、源頼家の嫡男こと一幡が3代将軍になれない可能性があります。それ故に源頼家は謀殺しました。こんなことしたらもちろん、政子とバトル関係になりますね。

ただ、急展開が起きますなんと源頼家は1203年7月下旬に、毒でも盛られたのかわかりませんが大江広元亭で倒れてました。それ以降は体調不良に悩まされています。8月末には危篤状態です。ここまで来たら後継者問題が本格的となりますよね?その際に源頼家は一幡を次期将軍にしようとしたと言われています。それ故に比企能員が北条時政の策略にはまることになります。

比企能員の乱の流れ

比企能員の乱を簡単に言えば源頼家が危篤状態になったことで誰を後継ぎとするかとなった時に比企能員が陥れられたと思えばいいです。では、どういう乱だったのか?

1.比企能員を呼び出す

1203年8月27日、源頼家が危篤状態のなか時政らは関西38ヶ国の地頭職を源実朝に与え、関東28ヶ国の地頭職と諸国惣守護職は一幡が継承するということを決定をします。本来ならば一幡が全てを相続するんですけどね。でも、分割相続となったことにで比企能員は激おこです。そこで、1203年9月2日比企能員は病床の源頼家に時政を討つように訴えました。それで、源頼家は時政追討を承諾しました。

それを立ち聞きしてた政子は早速時政に報告します。そして、時政は政所別当大江広元の屋敷に赴いて相談しました。大江広元は明確なことは言わなかったそうです。ですが、比企討伐に反対はしなかったと解釈した時政は色々と相談したいと言い時政の屋敷に呼び出しました。

2.比企能員はめられる

比企能員は時政のところに行くのをやめるように促されました。ですが、比企能員は誤解を招くと思い昼頃に北条のところに向かいました。この考えは甘いです。時政は北条家の手勢が武装して待ち構えていました。比企能員は誅殺されました。このことはもちろん比企能員の従者によって伝わりました。そこで、比企一族は一幡の屋敷があった「小御所」に立て籠もりました。ただ、逃げ切れませんでした。なんと、その行為は謀反でとみなされ政子が比企討伐の命を発し軍勢が派遣されました。もちろん、比企側も必死に抵抗しました。

3.比企家滅亡

どんなに抵抗しても力的に比企家は無駄でした。もはやこれまでと思った比企家は館に火を放ち一幡の前で自決しました。一幡も焼け死んだそうです。また、源頼家の側室こと若狭局は蛇苦止の池に身を投げて自害しました。ただ、比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は女装して逃走しましたが道中で見つかり首を取られました。9月3日比企能員の妻や妾などは安房国へ流罪となりしまた。これで比企能員の乱は終わりです。比企家の遺領と守護は北条家の支配下に置かれました。そして、源頼家は危篤状態から奇跡的に復活した幽閉されました。その話はいつか話せたら話しますね!

佐藤二郎と堀田真由

番外編です。ずっと話したかったことです。今回鎌倉殿で比企能員役をやっていた佐藤二郎と比企能員の兄弟の娘こと比奈さん役をやった堀田真由ちゃんは共演していました!何で共演したかというと「かぐや様は告らせたい」です。一部のシーンですがこちらです!

なんでこんな流れになったかに関しては映画を見ている人なら分かると思います。気になる人は映画を見てみてください!

私は映画を見ていたのでまさかの鎌倉殿でこの2人が共演するとは思ってもなかったです。しかも、今回は同じ家の人間ですからね。

まとめ

どちらが悪いとかはないとは思います。ただの権力争いです。まあ、鎌倉殿では比企がひたすら勢いつけていた感じはありましたけどね。ただ、それだけで良し悪しは判断できません。こればかりはタイムスリップするしかないですね(できるわけないですが)。ただ、少なくとも言えるのが頼朝がいなくなってからは源氏は捨て駒だったことです。どちらの家も源氏を利用していたのは事実です。要するに、元から源氏のことはそれほどってことです。それで勝ったか負けたかの話です。私的には頼朝が生きていた時から源氏を捨て駒にしていたと思います。よいしょしてから落とすとはこういうことですね。

このように、北条や比企目線で見ていくと歴史のあり方が変わってくると思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう