北条に滅ぼされた! 比企能員とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!頼朝が流罪の時に支援をしていた家があります。それは比企家です。正式にいうと比企尼が支援していたと言ってもいいですね。それ故に比企家は頼朝に重用されていた家の1つでもありました。その際に活躍してきたのは比企能員という人です。彼は本当にいろんな家とのコネがありました。北条と源氏がそうですね。まあ、後ほど話しますが北条と婚姻関係を作ったことで後々厄介なことにはなりますが…。ただ、あまりに力をつけたことで不幸な目に遭います。コネがあったことの悲劇ですかね?だからこそ、比企能員について話しますね!

比企能員のプロフィール

とりあえず、プロフィールから!比企能員の肖像画が見つからなかったため鎌倉殿で比企能員を演じた佐藤二郎さんを載せときます!

名前 比企能員

生年月日 不明

出身地 阿波国?安房国?

※現在の徳島か千葉の館山市・南房総市・鴨川市あたりです。地域違いますしどっちやねんって思っちゃいますが…。

没年 1203年9月3日

比企能員の人生

以上が比企能員のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んでいたのか?今から話したいと思います!

1.比企尼の甥

比企能員の幼少期に関して分からないです。先ほどのプロフィールを見れば分かりますがいつ生まれたもわからないです。ただ、少なくとも言えるのが比企能員はもともと源頼朝の乳母こと比企尼の甥です。比企尼は夫の死後も頼朝に奉公しました。だから、頼朝が流罪になった時に密かに支援していたんです。この支援のおかげでなんとかなったこともあります。そして比企能員はのちに比企尼の養子となりました。となると、比企能員は頼朝の側近として初期より仕えた武将ですね。それで、比企能員は妻とともに1182年に、頼朝の嫡男の源頼家の乳母父・乳母となり頼家の養育・後見をしました。比企家と源氏が繋がるととあるお家はいい思いしませんね。

2.将軍に重臣されていた

比企能員は頼朝からの信頼がありました。壇ノ浦の戦いで平家が滅び、生け捕った平家の総大将平宗盛が頼朝と御簾越しに対面したとき頼朝の言葉を伝える役目となりました。さらに、1189年、奥州の藤原泰衡の追討では北陸道大将軍、翌年泰衡の郎等だった大河兼任が起こした乱でも東山道大将軍として出陣しています。戦攻はこんな感じです。また、婚姻関係では比企能員の娘こと若狹局は、頼朝の嫡男である源頼家の側室となるだけでなく1198年に一幅を生んだのでますます力をつけました。

3.北条との対立

1199年1月13日に頼朝がいなくなりました。そして、嫡男の源頼家が鎌倉幕府第2代将軍となりました。初めのうちは大江広元らの助けのもとに政務を執っていました。ですが、ヶ月後に頼家の裁決権を奪われてしまいます。そして、「有力者13人の合議」によって政務を遂行されることとなりました。もちろん比企能員はその13名のメンバーの1人です。そして、その影響で権力を巡る争いが始まります。その際に比企能員は有利でした。なぜならば、源氏とのコネがあるからです。ただ、それは法事のにとっては面白くないです。それ故に時政と対立することになります。

 

4.時政に謀殺

1203年7月20日将軍・源頼家が突如発病し、危篤状態となりました。これはもうダッシュで後々のことを考えないといけないですね。一応話し合いの結果頼家の息子・一幡に東国28カ国の地頭職と日本国総守護職を相続させ、頼家の弟・源実朝に関西38ヵ国地頭職を相続させるということになりました。この件は比企能員にも知らせられていませんでした。なんでなのか?それは源実朝派の北条氏による挑発です。比企能員は自分の義理の息子が全てを相続できないのを不満に思いました。そこで、比企能員は頼家に時政が謀反を計画しているとと訴えます。頼家は激おこです。時政を討つことにしました。

ですが、その密議の内容を立ち聞きした政子のおかげでそのことは時政に知られました。もちろん、時政は反撃します。1203年9月2日に仏事を理由に時政は名越亭という屋敷に比企能員を呼びました。その際に比企能員は殺されました。一方、比企家は一幡の屋敷・小御所に籠城します。もちろん、北条は比企家を追い詰めます。結果としてはまだ6歳だった一幡も含めて皆が自害という形で比企家は消滅しました。

 

対立に関してはどうだったのか?

吾妻鏡は北条が後年に編纂している部分が多いです。となると、北条にとって不都合なことは編纂されていると思います。歴史とはそういうものです。そして、比企能員との対立は別の資料にも書かれていてその資料とは食い違う点があるそうです。ちなみに別の資料とはなにか?それは愚管抄です。このように書かれています。

「重病の頼家は出家し、将軍として持っていたもの全てを子の一幡に譲るつもりだった。しかしそうなると、一幡の義理の父となる比企能員が大きな権力を握ってしまう。それを恐れた北条時政は、能員を呼び出して殺害。小御所にいる一幡には逃亡されてしまうが、比企一族を滅亡させた。11月には北条義時よしときの配下の者が、一幡をも討取った」

まあ、簡単に言えば一幅の義理の父が比企能員だったことで力を持とうとしてた北条が比企家に乗っ取られたくないって気持ちから陥れたってことですね。また、北条家が比企家を滅ぼそうとしていたのは計画していたとも言えるかと思われます。きっとこの時の義時くんはダークモードだと思います。

義時と比奈さん

鎌倉殿を見ている方ならご存知かと思いますが義時の奥さんこと比奈さんって誰の家の子ですか?そうです。比企家です。比企能員の妻が比奈さんを北条との架け橋にしようみたいに言っていましたしね。お互い政略のためと思っていたと思いますが。ただ、対立したことで比奈さんと義時がうまくいくわけないですよね。自分の夫に家を潰されたわけですし。もし上手くいっていたら自分の実家が嫌いじゃない限り事件ですよ。それか相手のことが相当好きじゃないと無理です。

ここまで来たらもちろん離縁です。その後の比奈さんは読めてないですがすぐにいなくなったとも言われてます。一方で義時はどんどん出世し二代目執権となっていきます。そして、また別の人と結婚します。

義経の正室は比企の家の子だった?

鎌倉殿で義経が追われている時愛人の静御前とは離れ離れになりましたよね?一方で正室の里御前は連れて行きました。そりゃ、正室を優先するのが当たり前だと思うかもしれません。ただ、理由はそれだけではないんです。実は里御前なんですが比企の家の子でした。そう考えると比企家って色んなところとコネを作っていたということにもなりますね。まあ、そのコネ作りをしすぎたせいで北条にターゲットにされたというオチになりましたけどね…。

まとめ

たしかに、コネはないよりもあった方がいいです。ですが、あることによって色々問題にもなります。権力を持っているから誰かが警戒しますよね。そうじゃなかったら北条は陥れたりしないです。まあ、北条からしたら政子が頼朝と結婚できたからこそ比企家が邪魔だと思うのも無理ないです。特に鎌倉時代なんて裏切られたり陥れたりする時代です。勢力を持とうとするとバトルになります。だからこそ、コネを持つ際には慎重にならないと大変なことになるのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう