なんで?本能寺の変が起きた理由

どうも、りかちゅうです。皆さん本能寺の変はご存知ですか?あれでしょ?明智光秀って人物が織田信長に謀反を起こした事件だよね?そうです。その通りです。まあ、有名な話ですからみんな知っていることは間違いなしですね。ただ実は本能寺の変ってなんで起きたかに関しては説が色々あります。要は謀反であるのは明らかなんですが謀反が起きてしまった要因が多くて読めないということですね。ということでこの記事では本能寺の変が起きた理由について話したいと思います!

本能寺の変って何?

本能寺の変に関しては先ほども述べたように明智光秀が信長を裏切ったという事件というのはわかるかと思われます。ただ詳細については分かっている人もいれば分かっていない人がいることです。そこで、まず本能寺の変とはどんな事件だったかについて2人の関係性などを含めて詳しく話したいと思います!

1.信長と明智光秀の関係性

信長と明智光秀の関係性を簡単に言うならば上司と部下です。しかも明智光秀は2番手の立場でした。しかも2人の関係ってそこまで仲が悪いわけじゃなかったんですよ。むしろ、お互い信頼していた感じでした。明智光秀は信長に仕える前に斎藤道三や朝倉氏に仕えていました。ですが、明智光秀の実力を認めて活躍の場を与えてくれたのは信長のみでした。それもあって明智光秀が書いた「明智軍法」にはこのような発言を書いています。

私は信長公に低い身分の時から取り立てていただいて、

このような大勢の軍団を預かるまでに至った

この発言から見ても信長には感謝していますね。もし感謝していなかったらこんな発言はしないですね。

では信長はどう明智光秀を評価していたのか?このように述べています。

丹波国を攻め落として明智光秀は目覚ましい働きをし、

天下の人々に絶賛された

信長は絶賛していることが明らかに分かりますね。他にも軍事、政治、調整業務を明智光秀に託していました。そんな関係性なのにもかかわらずなぜ明智光秀は信長を裏切ったのか?それは本能寺の変の直前にその関係性が崩れたからです。

2.本能寺の変が起きる前の明智光秀

本能寺の変が起こったのは1582年でした。その頃、明智光秀は京都の亀山と坂本を治める大名でした。それで、その当時、明智光秀は織田本隊の先鋒として毛利がいる中国地方攻めに参加する予定でした。ですが、その時、明智光秀は信長をよく思っていませんでした。明智光秀は信長からキンカン頭(いわゆるハゲ)と呼ばれたり、家康の接待でやらかして怒られてしまっていた直後でした。他にも長曾我部家の件でも信長は明智光秀の意見を聞かないで殴るという行為をしたことで明智光秀は信長のことを不信に思いました。

3.信長、本能寺に滞在

このように信長の行動から明智光秀は信長に不信感や嫌悪感を抱きました。そして、時は1582年6月2日。本能寺の変は起こりました。ではなぜ本能寺の変なのか?それは前日の6月1日に信長が毛利にいる中国攻めの援軍(現地では秀吉が戦っていました)に向かう途中、本能寺に泊まったからです。ちなみに本能寺は寺であっても周りには城と同じように堀に囲まれていたのもあって防御面では優れていた寺でした。それもあって兵の数は諸説によると250人いるかどうかくらいと少なかったと言われています。ちなみに信長は本能寺にて茶会を楽しんでいたそうです。

4.光秀、本能寺に襲撃

信長は明智光秀に襲撃されるとは分からず本能寺の時間を楽しんでいました。もし分かっていたらもっと軍勢も多いですしね。では明智光秀は前日の6月1日に何をしていたのか?なんと居城の亀山城を出発して中国地方に向かうところでした。その際、明智光秀は途中で右に行ったら本能寺、左に行ったら中国地方という分岐点にたどり着きました。時間は1582年6月2日の午前5時。もちろん信長は寝ていました。そんな時に明智光秀は1万の大軍で本能寺を襲撃し、信長は自害しました。

ただ、信長の遺体が見つからなかったのもあり生存説もあります。とはいっても本能寺の変を機に信長は戦国の世からは身を消しました。

本能寺の変が起きた理由

1582年6月2日に起きた本能寺の変がどう言うものなのかが分かったかと思います。ですので、次に本題でもある本能寺の変が起きた理由について話したいと思います。

1.恨みがあったから

先ほども述べたように個人的な恨みがあったから明智光秀発言本能寺の変を起こしたとも言われています。キンカン頭の件や、家康の接待での説教。パワハラ。他に自分の領地が取り上げられるなど明智光秀にとって理不尽な対応が募りに募って本能寺の変を起こしたとも言われています。信長に振り回されたくないという思いが明智光秀にはあったのかもしれません。あくまで史実なので100%正確なのかは読めないですが、もし本当の話でしたら信長にも落ち度はありますね。

2.野望があったから

実は明智光秀には野望があったと言われています。なんか1582年5月28日に明智光秀は愛宕神社で開催された連歌会で、このような短歌を詠みました。

ときは今 雨が下知る 五月かな

短歌の意味を解説すると、「とき」は明智光秀の出身地の土岐市、「雨」は天下の天、「下知る」は命令を意味し、自分が天下を取るということを間接的に述べています。実際に大河ドラマの「麒麟がくる」というタイトルの意味も戦乱の世を終わらせ平和な世をもたらす人物=麒麟を連れてこれる人という意味が込められています。どういうことかと言うとドラマのタイトルから明智光秀が戦国時代の乱世を止めることのできる人になりたかったという意味があるのかなということです。ただこの説は史料的価値には疑問視されています。

3.黒幕がいた説

明智光秀が個人的にやったと見えてしまう本能寺の変ですが実は黒幕がいたんじゃないかとも言われています。まずは朝廷。明智光秀は朝廷のために働いていました。それもあって信長が勢力を広めるのは明智光秀にとっても朝廷にとっても不都合ですね。それで朝廷が命令したのではないかと言われています。

あとは秀吉の黒幕説ですね。本能寺の変のあと秀吉はダッシュで中国地方から京都に帰りました。ただその速さがあり得ないくらい早いことから元からやり取りしていたのではないかとも言われています。どれだけ早いかというと定量九日ほどで約200万kmです。準備なしではあり得ないです。確かに、秀吉も信長がいると天下が取れないという考えはあったのかもしれませんが、これもこれで断定はしにくいちゃしにくいです。

※説が多いので一部しか紹介できません。

まとめ

戦国時代という時代なだけあって証拠がつかみにくいものもあります。今の時代なら写真撮り放題ですが、昔だと文字で書かれたことや昔の物品での判断ですからね。それもあって謎な部分が多いのは事実です。しかも、信長の遺体も見つからなかったからこそ、読めない点も多々ありますしね。

ただ、その中でも言えることは信長には敵がいたことと明智光秀との人間関係を壊したことですね。その当時のトップであるだけ敵は多いのかもしれませんがここまで説があるということは敵が多いトップであるのは間違いなしですね。また、それに加えて明智光秀とは信頼関係にあったものの、信長の対応のせいで明智光秀で怒ったことから人間関係を壊してこのようなことが起きたと思われます。

要は信長とは敵は多く作りやすい人材だったのかと思います。トップの難しさですね。これを踏まえて敵を多く作らないことを意識しようと思いました。以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう