バトル関係?岩崎弥太郎と渋沢栄一の関係

どうも、りかちゅうです!岩崎弥太郎と渋沢栄一がバトル関係にあったことはご存知ですかね?まあ、明治維新のことに詳しい人ならば分かるかと思われます。青天を衝けでもこのシーンは出ていますしね。ただ、このバトルに関しては2人だけの問題ではなかったんです。なんと、政府や三井なども巻き込まれていた感じでした。それはそうですよね、その当時2人ともお偉いさんですからね。ということで、どういう感じのバトルだったかについてこの記事にて話したいと思います!

一緒に会社を作った仲?

実は色々バトルした仲ではあるものの、一緒に会社を作った仲ではあります。経緯としては渋沢栄一が海上保険会社創設への協力を岩崎弥太郎に呼びかけました。それで、岩崎弥太郎は資本金60万円のうち最高額の11万円を出資したそうです。こうして1879年に東京海上保険会社(今でいう東京海上日動火災保険株式会社)が誕生しました。

とは言えども、多くの株主を集めてスタートした会社でした。ですが、三菱の岩崎家がダントツの大株主だったことから、1933年には三菱合資会社の傘下に入ったそうです。これは渋沢栄一にとっては不本意だったかと思われます。

バトルのきっかけ

このように、会社を作ったことは事実ではあります。それならばバトルってどうしたんだよと思いますよね。それにはとあるきっかけがあります。ですので、今から話しますね!

船遊びでのバトル

渋沢栄一は岩崎弥太郎から船遊びに誘われました。もちろん、お酒はありますよ。それで、酒宴で今後の実業はどうしていくべきだろうかと岩崎弥太郎は渋沢栄一に質問しました。そして、合本主義を熱く説きました。合本主義とは、多くの人々から資金を募り、適任者を見つけて事業を委ねる方法で会社を運営することです。そのようなやり方だと会社をワンマン経営したり株式を独占したりせず、経営が軌道に乗ると渋沢栄一は考えていました。そのような考えから生涯500社近くの企業設立に関わったそうです。

価値観の違い

これで2人とも同じ意見ならばいいですよね。それが違かったんです。岩崎弥太郎は、三菱の社則にこのようなことを書いています。

三菱商会は会社の形態をとるが、実際は岩崎家の事業であり、多数から資本を募って結社するのとは異なる。だから会社のことはすべて社長の裁可をあおげ

要するに、独占主義を貫いた感じですね。もちろん、渋沢栄一はそれを嫌がりました。それ故に、岩崎弥太郎が日本の海運を独占するようになると、三井物産の益田孝と結んで東京風帆船会社を設立し、三菱に対抗しようとしました。となると、お誘いはと思いますよね?もちろん、岩崎弥太郎は渋沢栄一の行動を阻止しようとしての誘いですよ。また、その当時弥太郎は酔っていた大激論になり、渋沢栄一は芸者を全員引き連れて引き上げてしまったそうです。

バトルの経緯

この船遊びがきっかけで大ごとなバトルに至りました。ですので、どうな感じだったかをざっくり話しますね!

1.独占状態を阻止した渋沢栄一

三井物産の社長益田孝らはかつて資本金30万円で東京風帆船会社を設立しました。その際に海軍大佐の遠武秀行を社長として海軍業への進出に乗り出していました。

ただ、三井物産は三菱に大量の物資を輸送させていたものの、三菱が海運を独占するがゆえに運賃が非常に高く、値下げを交渉しても一切相手にされなかったそうです。そこで益田は懇意にしている第一国立銀行の頭取である渋沢栄一に相談したのだ。もちろん、渋沢栄一は「一人儲けさえすれば、即すなわちそれが人間の本分だとは思われない」という考えがあったからこそ協力しました。

2.岩崎弥太郎、メディアで攻撃

渋沢栄一の行動を見て岩崎弥太郎は驚きました。そこで、岩崎弥太郎は早速石川、川田などの幕僚を呼び集め、風帆会社揉み潰し運動をすることにしました。まず、揉み潰しの手段としては政府の大官に黄金をバラまいたそうです。なかなかの行動ですね。また、御用新聞に風帆会社の悪口を書かせるようにするなどいろいろのことをやったそうです。このような行動には渋沢栄一は流石に恐れを感じたそうです。そして、ついに風帆会社は事業開始に至らず消滅してしまいました。

3.切り崩し工作

岩崎弥太郎の攻撃はまだまだあります。東京風帆船会社の株主の一人である富山県の藤井能三のもとへ行き、伏木港の発展に尽くすことを条件東京風帆船会社と縁を切るように誓約させ、越中風帆船会社を設置してしまいました。また、新潟県の商人たちに対しては、東京風帆船会社に参加するのではなく、新たに新潟物産会社を作ればいいと言いました。また、作る際に三菱から低利で20万円を融資するだけでなく、政府が御用米を買い入れる時は全部新潟米にすると言ったことで切り崩しに成功したそうです。そこまでしてしてやりたい何かがあったんでしょうね。

4.渋沢栄一のリベンジ

このように、岩崎弥太郎の攻撃はなかなかなものでした。ただ、渋沢栄一もリベンジしました。1882年に大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生すると、政府は改進党の運営資金が三菱から出ていると考え、対抗することを考えました。そこで、西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設をすることを政府に言いました。この会社は渋沢栄一栄一、益田孝ら三井系、関西財界の大物が参加しました。渋沢栄一にと2年前のリベンジです。そして、600万円という巨額な資本金をもとに共同運輸を立ち上げました。

5.海坊主と呼ばれた岩崎弥太郎

これは岩崎弥太郎にとってはピンチです。そらもあって、岩崎弥太郎はこんな意見書を書きました。

日本の海運業界はまだ脆弱なのに、新たに海運会社を起こせば、三菱との間に激しい競争が起こり、決して国家のためにならない。ぜひとも中止していただきたい。

 

ただ、意見は言ったものの岩崎弥太郎の思う通りにはなりませんでした。なんと、意見書が自由党系の新聞にすっぱ抜かれてしました。その際、自由党系の新聞社は「海坊主退治、偽党撲滅」キャンペーンみたいなことを言ったそうです。これは恥ですね。

最終的なオチ

結論としては和解して親戚になりました。三菱は岩崎弥太郎がいなくなってから弟の岩崎弥之助が後継となりました。岩崎弥之助は海運以外の小さな事業を集め、新会社、三菱社を設立しました。具体的には鉱山、炭鉱、造船、丸の内のビジネス街の建設などに尽力したそうです。その際に岩崎弥之助は一門のための経営ではなく、国家の繁栄を考えました。そこで、渋沢栄一にも和解を申し入れ、日本郵船の取締役をして欲しいと依頼しました。渋沢栄一はこの依頼を快諾しました。それ以降、渋沢栄一はいくつも三菱と共同で事業を行いましたそして、1922年には、跡継ぎである渋沢敬三の妻に、岩崎弥太郎の孫を迎えました。

まとめ

まあ、両方とも黒なんですけどね。特に岩崎弥太郎に関しては悪行だらけです。闇組織と繋がりも強いですしね。ただ、2人には価値観がこんなに違うんだなということが分かりました。合本か独占かで争うような関係でしたからね。まあ、このようなことを踏まえても同じ黒側でもここまで違うことがあるんだなということを実感しました。また、青天を衝けを見なかったら2人の関係がこんなに濃いものであったとはわからなかったので勉強になりました。まあ、そんなところですかね?最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう