重用されていたのに…。梶原景時の変とは何か?

どうも、りかちゅうです!鎌倉殿ではやっと13人の合議制がスタートしましたね。とは言えどもこの合議制は上手くいかないです。なぜならば、次々と色んな人がドロップアウトしていくからです。まあ、ドロップアウト劇場北条が作り上げた出来レースなんですけどね?そのために源頼家をお飾りにする政策を作りました。それで、1番初めにドロップアウトするのは梶原景時です。あの頼朝を助けた人だよねって?そうです。まさかのあの人がトップバッターです。しかも、きっかけが北条の人です。では、どういう経緯でドロップアウトしたのか?今から話したいと思います。

梶原景時とはどんな人?

梶原景時の変の話をしても梶原景時とは誰ということがわからないと始まらないですよね。ですので、簡単に話したいと思います!

梶原景時とは初めは平家の人間でした。ですが、源氏側に乗り換えます。そのきっかけが石橋山の戦いです。源平合戦の初っ端の戦こと石橋山の戦いで源氏はボロ負けしました。もちろん、頼朝は逃走しました。ですが、梶原景時にそれを見られちゃうんですよね。それなのに梶原景時は見逃しました。理由は源氏に期待があったからという説はあります。ただ、その時点ではまだ平家です。数年後に源氏側になります。それからは鎌倉殿を見れば分かりますがいいポジションですよね。元は平家側なのになぜかまとめ役になっていました。それくらいしごできってことですね。

ですが、これから話す梶原景時の変にて討伐されることになります。おそらく、力を持っていたからこそターゲットにされていだと思われます。正直なことを言うと頼朝がいなくなってからは権力争いそのものでしたからね?結末は義時くんが優勝します。これは皆さん百も承知ですね。

 

※梶原景時についての詳細はこちらの記事に書かれています!

頼朝を助けた人!梶原景時とはどんな人?

梶原景時の変の経緯

まあ、簡単に言えば梶原景時とは源氏側になって色々活躍していた1人なのにある事件を機に陥れられてしまった人ってことですね。では、どういう経緯で陥れられてしまったのか?

1.一万遍の南無阿弥陀仏

吾妻鏡によると1199年10月25日に将軍御所の侍所では結城朝光が夢のお告げをもらったという話がありました。結城朝光とは小山政光と頼朝の乳母を務めた寒河尼の子供です。お告げの内容は正月に亡くなった頼朝のために「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧め「南無阿弥陀仏」を唱和しようということです。その際に朝光がこのように言いました。

「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」

このときその場にいた人たちが朝光の言葉に涙を流すくらい感動したそうです。

2.梶原景時の讒言

それから2日後の10月27日に城朝光は政子の妹こと阿波局から梶原景時の讒言であなたは殺されてしまうかもしれないと言われました。なぜならば、結城朝光が「一万遍の念仏」を唱えた日に「忠臣は二君に仕えず」と述べたことです。梶原景時はこの言い分が源頼家にに敵対しているのではないかと疑ったそうです。もちろん、結城朝光は驚きます。そこで
親交のあった三浦義村に相談します。その際に結城朝光は義村に頼朝への御恩を思いすぎて「忠臣は二君に仕えず」と言ったと釈明したそうです。その発言に義村は事は重大なので、宿老たちに相談すべきだと判断し、使いを差し向けたました。もちろん、和田義盛や安達森長長などが集まり梶原景時を訴えることとなります。訴状は、文章がうまいという評判の中原仲業が担当します。

3.連判状の作成

10月28日に三浦、ファミリー、和田義盛、中原仲業、安達景盛など66人の御家人が署名・血判をしました。作成された連判状は、源頼家に提出するため、和田義盛と三浦義村が大江広元にに託しました。ただ、北条親子はなぜか名前がないんです。きっかけは政子の妹なんですけどね?

4.和田義盛が煽る

連判状を受け取った大江広元は梶原景時が讒言によって人を陥れることについては気になっていたと表明しました。ただ、頼朝に親しく仕えていた梶原景時をすぐに処罰することは好ましいことではないということから平和的に解決する方法を考えました。ですが、11月10日に和田義盛雅連判状を源頼家に見せたかどうかを尋ねられまだ・・・と答えると和田義盛は激怒しました。それ故に大江広元は源頼家に伝えることを約束したそうです。

でも、なんで和田義盛がそんなに煽るのと思いますよね?それは和田義盛は梶原景時に侍所別当という職を奪われたからです。いわゆる恨みってやつで煽ったということです。

梶原景時の最期

源頼家は連判状を梶原景時に渡して弁解するよう伝えました。その際に梶原景時は何の弁解もしませんでした。そして、次の日には親族を率いていったん相模国一の宮に戻りました。ただ、梶原景時の子供こと梶原景茂は鎌倉に残っていました。それ故に11月18日に比企邸で開かれた梶原影茂は宴会に出席したそうです。もちろん源頼家は訴状について触れます。その時梶原景茂は頼朝の寵愛を受けた父が悪だくみなどするわけがないと答えました。

時が経って12月9日、景時は一度鎌倉にもどるが、12月18日に評定の結果が出ました。景時は鎌倉から追放されることとなります。梶原景時の屋敷は永福寺の僧侶の住居として寄附されます。そして、翌年の1200年1月20日に
梶原景時は上洛するために一宮わ駿河国清見関付近で在地武士と合戦となったことで討ち死。梶原一族は滅亡しました。

真相はどうなの?

肝心なのは梶原景時は結城朝光を本当に憎んでいたのかということですよね?結論としては憎んでいたという説はあるそうです。それは頼朝が生きていた時代に遡ります。1195年に頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列していた時です。なんと僧侶と警固の武士との間で紛争が起こりました。それで、梶原景時はそれを鎮めようとします。ですが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまいました。その際に頼朝は結城朝光に命じて事態を収拾させた。そうです。このような事件から憎んでいたんではないかという話があります。

北条親子の名前がない理由

連判状には時政と義時の名前がないってなりましたよね?いい質問ですねぇ。実は九条兼実の日記こと「玉葉」に梶原景時は将軍の2代目頼家の千幡(のちの源実朝です)を担ぎ出し源頼家を討とうとする企みがあることを讒言したと書かれているそうです。要するに、
梶原景時が讒言で陥れようとしたのは結城朝光ではなく時政だったという説もあるということです。真相はタイムスリップしないとわからないですが少なくとも言えるのは時政・義時とは何かあったと思います。

まとめ

トップバッターが梶原景時になった理由はわからないです。きっと頼朝への忠誠心を利用して梶原景時は結城朝光の発言に難癖つけてるみたいな噂が流されたとしか思えないです。たしかに、梶原景時は結城朝光といざこざはあったと思いますよ?ですが戯言の内容はワンチャン作られたものかもしれません。なぜなら、頼朝がいなくなってからは権力争いしかしてないからです。となると、私的には潰す口実でしかない気がするということです。このようなことを踏まえても、鎌倉初期は戦国時代なみに争い合っていたのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう