敵が多い!石田三成襲撃事件とは何か?

どうも、りかちゅうです!三成は人望がないのは有名ですよね。親友の大谷吉継にも言われていましたしね。これは彼の融通の悪さが影響しているのかなと思われます。人間は気持ちがあるからこそ物のように自分の思い通りにはならないよと言いたくなりますね。まあ、そんなことを言っても彼は信念が強いから曲げられないのかなと思いますけどねwwwwww。そんなにディスる必要ないじゃんって?このディスりにはわけがありまして。実は三成は人望のなさは日々の仕事のやり方のせいで恨まれていました。そのため、秀吉や前田利家がいなくなってから三成は7人の武将に襲撃されました。結果としては家康が匿って7人を大人しくさせたものの三成は蟄居させられました。事件としてはこんな感じです。では、なんでこんなことになったのか?この記事にて話したいと思います!

三成は人望がなかった?

襲撃事件のきっかけは三成の性格にあります。まず三成は人望がなかったです。こんなことを言ったら三成ヲタクに怒られますけどね。ですが、事実は事実です。では、なんで人望がなかったのか?

1.信念が強すぎて融通が利かない

三成の信念の強さはピカイチです。その信念の強さがあるから三成のことが好きな人もいるんですけどね。私も三成は不器用なところもあるものの本当はいい奴なことくらい分かります。ただ、三成には欠点がありました。それは信念が強すぎることです。三成は自分の考えを貫きたい気持ちが強いため人の立場に寄り添えない時があります。また、その信念のせいで臨機応変な対応を取ることが苦手です。こんな人近くにいたら嫌ですよね。要するに自分の思っていることを貫きたい気持ちのせいで嫌われていたということです。のちほど話す襲撃メンバーは三成のことを嫌っていましたね。

2.現場音痴

朝鮮出兵の時ですね。三成は御奉行の人間です。そのため、現場担当ではなく本部から指示を出している人間でした。会社で言うならば現場勤務ではなく本社勤務ですね。そのため、現場のことには疎いです。まだ戦経験がたくさんあるならば柔軟性はありますが三成はそういうわけでもないです。そのため、現場の言い分を聞き入れないとかあったそうです。むしろ、清正さんのことを悪く言いましたからね。他の人も被害に遭っています。このように現場の意見を台無しにするようなことをしたから人望がなくなっていきました。これは今の社会にも言えますが現場音痴って罪ですよね。

石田三成襲撃事件って何?

このように三成は人望がなかったから秀吉の死後にある事件が起きます。それは三成襲撃事件です。では一体どんな事件なのか?

1.前田利家の死

1599年3月3日に五大老の長老格である前田利家がいなくなりました。そのせいで豊臣政権の組織力は崩れていきました。特に三成は後ろ盾を失ったも同然です。どういうことだよって?前田利家がいなくなったことで三成のことが嫌いな武将たちが三成に露骨な対抗をしようとしたからです。対立の原因は文禄・慶長の役において三成から不当な扱いを受けたからです。その仲でも7人のメンツがお怒りでした。

2.三成襲撃

メンバーが誰かは後ほど話しますがそのメンバーは前田利家が死んだことをいいことに大坂にいた三成の襲撃を実行しようとしました。これが石田三成襲撃事件です。七将に狙われた三成は窮地に陥りました。まず三成は伏見へと急いで戻ったもののどうすることもできませんでした。そこで、三成は伏見屋敷にいる徳川家康に助けを求めました。

3.家康が三成を匿う

家康は非常に驚きました。ですが、て三成を屋敷に匿い七将の怒りを納めました。これで三成の命はなんとかなりました。ですが、三成は自分の城こと佐和山城で蟄居となりました。これは政治に携われないと言っても過言ではありません。三成にとっては屈辱的な話でしょうね。

三成が恨まれた理由

三成を襲撃した七将のメンバーは説によりますが細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、加藤清正、浅野幸長、黒田長政と言われています。ではその七将たちはなんでそこまで三成を恨んでいたのか?

1.朝鮮出兵の戦況と作戦

朝鮮出兵で蔚山城に籠もっていた加藤清正と浅野幸長は、明・朝鮮連合軍の大軍により包囲・攻撃されていました。そのため、兵糧が乏しく苦戦を強いられていました。ただ、釜山からの援軍によって明・朝鮮連合軍は崩され退去したんですねどね。ただ、援軍は総崩れとなった明・朝鮮連合軍をほとんど追撃することなく撤退しました。この間に加藤清正ら朝鮮の現地で戦っていた武将たちは和睦を模索することを前提としていました。一方で秀吉は戦う考えでいました。これは話が合わないですね。

2.三成の糾弾

清正さんたちと秀吉の考えが違うという話は三成と関係の深い軍目付こと福原長堯から秀吉のもとに伝わりました。怒り狂った秀吉は戦線縮小を検討する黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正、藤堂高虎らを厳しく糾弾しました。その時に実行したのは三成です。そのせいで三成への強い遺恨になりました。三成も上司の意見には逆らえないとは言うものの、現場の言い分を聞き入れないような感じではあったのかなと思われます。そのため、七将の恨みがマシマシになったのかなと思われます。実際に三成が清正さんを悪く言うような描写はありますしね。

襲撃というよりかは訴訟?

最近では襲撃ではなく訴訟かもという声はあります。まず藤堂高虎は大坂にいたそうです。また福島正則、細川忠興は積極的に襲撃に加担したという話は見当たらないそうです。むしろ、2人とも三成襲撃に同意したくらいとも言われています。それ故に七将による三成への襲撃事件はなかったことが指摘されている。ただ、襲撃と言われているのは三成に政治的責任を負わせて切腹という制裁を加えたかったからだそうです。そのため、襲撃ではなく訴訟に及んだという考えを持っている人もいます。

三成は蟄居されたのは事実

襲撃であろうと訴訟であろうと大阪城を追い出され蟄居されたのは事実です。ただ、家康は三成と対立しようという感情から蟄居させたわけではないのかなと思われます。むしろ、七将の怒りを止めさせるために蟄居させたのかと思われます。秀吉がいなくなって色々混乱しているからには三成と七将の距離は置かないといけないですからね。ですが、三成からしたらそれは屈辱的だったことでしょう。それ故に三成は家康へのヘイトが溜まったのかなと思われます。それがその後の流れに繋がりますからね。

その後の流れ

その後は関ヶ原に至ります。三成が蟄居されていた間に家康は上杉討伐をすることになりました。上杉が徳川の言い分を聞かなかったことがきっかけですね。直江状がその1つですね。そのため、徳川側に人間は大阪城を離れました。これを知った三成は徳川を討伐するチャンスだと思い動きました。もちろん家康もターゲットを上杉から三成に変えました。それが関ヶ原です。詳しいことはこちらを見てください!

三成と家康が対立するきっかけと関ヶ原の経緯

まとめ

関ヶ原の戦いにおいてこの話は重要です。このくだりがあるから関ヶ原があるんです。別になかったとしても関ヶ原になるかもしれないんですけどね。ですが、対立するような感じになったのはこの事件の影響かなとは思っています。だからこそ、私的にはこの事件はキーポイントなのかなと思います。また、この事件は三成の人望のなさが露呈されてるものだと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう