三成と家康が対立するきっかけと関ヶ原の経緯

どうも、りかちゅうです!三成と家康って元はすごく仲が悪いというわけではありませんでした。むしろ、豊臣家の家臣としてお互い仕事をしていました。時にはビジネス仲間として協力していた時もありました。ですが、秀吉がいなくなってからは2人は対立するようになります。なぜなら、秀吉がいなくなってから家康の権力が強くなったからです。三成からしたら家康の行動は豊臣家を乗っ取ると思ったんでしょうね。家康には色々考えがあったのに伝わらないのが残念ですが。まあ、とにかく秀吉がいなくなってから2人の関係は壊れ関ヶ原で戦うことになります。ですので、この記事にて三成と家康が対立するようになったきっかけと関ヶ原の経緯について話したいと思います!

2人は不仲ではなかった?

実は三成と家康は初めから不仲ではありませんでした。証拠は文面です。2人ともお互いのことが嫌いだなんて文面に書いていません。あの時代なんて写真がないです。それだからなにかあったら文面に残します。それなのに何も書いていないとなるとお互いそこまで強い思いはないのが分かります。むしろ、好きでもないし嫌いでもないって感じです。ではどういう仲だったのか?ただのビジネス仲間です。もちろんそこまで仲がいいわけではないからプライベートで会う関係でもないです。職場で仕事の話をするくらいの距離感だと思えばいいです。まあ、詳しいことはこちらを見てください!

不仲ではなかった!家康と三成の関係とは

 

不仲となったきっかけ

このように、三成と家康は初めから仲が悪いわけではありませんでした。ですが、あることがきっかけで対立をしました。では何がきっかけだったのか?これは秀吉の死ですね。秀吉は6歳の秀頼は家康が面倒を見るようにと遺書に書きました。そのため、家康が秀頼をサポートすることになります。また、それと同時に家康の力も強くなっていきます。家康に頼る大名も多かったです。そのため、家康は禁止されていた大名同士の結婚や領地の取引を独断で行いました。これは他の大名たちから非難を受けますね。その中の1人に三成がいました。

関ヶ原の戦いの経緯

秀吉がいなくなって家康が前に出てきてから対立したと思えばいいですね。この状況のせいでもっと悪化します。その結果関ヶ原に至りました。ではどのような流れで関ヶ原に至ったのか?

1.三成の怒り

家康の勝手な行動に五奉行は怒ります。特に三成は家康を非難するようになります。ですが、みんながみんなして三成の味方はしません。むしろ、家康に頼る人もいました。なぜなら三成を中心とした政務担当の文治派と現場で戦っている武断派が対立していたからです。となれば当たり前ですが、武断派が家康を頼ります。ですが、大きな戦いに発展しなかったのは仲裁役として前田利家が活躍していたからです。

2.前田利家の死と三成襲撃事件

仲裁役である前田利家がいなくなってしまいました。そのせいで武断派は三成にたいするヘイトが増しました。また、文治派と武断派関係は修復不可能なものになりました。その象徴となる事件が石田三成襲撃未遂事件です。簡単に言えば三成を追いやろうという事件で武断派7名の武将が三成を倒そうと襲撃計画を立てます。ですが、三成は事前にそれを察知しにげます。結果としては家康が仲裁したことで大ごとにはなりませんでしたが、三成は謹慎処分となって一時的に失脚しました。その影響で事件を解決させた家康の権力はますます強くなりました。

3.上杉討伐と三成の挙兵

家康は自分の命令に従わず軍備を整え出した五大老の上杉景勝を謀反の疑いがあるとしました。そこで、家康は会津にいる上杉景勝を討伐するために大軍を率いて出陣します。一方三成は家康が出陣したことから打倒徳川の兵を挙げます。まず三成は大阪城に徳川派はいないことをいいことに諸国の大名に協力を呼びかけ大勢の兵を集め徳川家臣の家族を人質にとりました。そして徳川の兵がいる伏見城を攻撃しました。この状況を聞いた家康は上杉討伐を中断し三成と戦うことにしました。これが関ヶ原のきっかけです。

家康の本当の計画

一見家康は豊臣を乗っ取って天下を取ったってイメージはあるかと思われます。ですが、違います。実は信長、秀吉、家康は3人で平和な世の中を作ろうとしていました。その際に信長は秀吉に引き継ぎたいために本能寺であえて引っ込みました。本当はあの場では死んでいないそうです。長野にいました。これで秀吉が上手くやってくれると信じていたんですよ。ですが、そうはいきませんでした。本来ならば3人は世襲制はしないと決めていました。世襲制は能力よりも権威で判断されますからね。嫡男であればいいって感じですし。それなのに、秀吉は秀頼に家督を譲ろうとしました。これは計画が狂ってしまいます。そのため、家康にはピンチな話です。そこで、家康は前に出て計画を修正しました。要するに、徳川の繁栄のためというよりも計画の修正のために家康は前に出たと思えば良いです!

大河ドラマでは仲がいいのに?

 

どうする家康では三成と家康は仲がいいですよね。初対面の時なんて天体観測をしていましたし。

それなのに、対立するなんて信じたくないです。私的には関ヶ原なしにしてもいいのではと思っていましたもん。そんなこと無理ですけどね。ですが、それくらいの仲だったのにと思っていました。実際に他の人もそのように思っていたはずです。それ故に切なくなります。というか本来ならばここまで仲良くされても困るんですけどね。だって先ほども話したように2人はビジネス関係の仲でしかないですからね?まだ真田丸の時の距離感の方が適していたかと思われます。

まとめ

三成も平和な世の中を作ろうと考えていました。三成の旗印こと大一大万大吉という意味が答えです。あれには一人が万人のため、万人が一人のために尽くす。そうして天下は太平になるという意味が込められています。これは家康の考えていることと同じでした。正式に言うと信長、秀吉、家康の計画なんですけどね。何が言いたいのって?三成と家康が同じ考えだったならば2人で力を合わせても良かったのにということです。ですが、そういうわけにはいきませんでした。それは三成が茶々は秀頼を前にだそうという考えがあったからです。要するに、平和にしたいという考えは同じであるもののトップとなる人を誰にするかが一致しなかったから考えは同じであるものの対立してしまったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました!

りかちゅう