不仲ではなかった!家康と三成の関係とは

どうも、りかちゅうです!三成と家康が関ヶ原の戦いで戦ったのは事実です。結果は家康が勝ちました。一方で三成は六条河原で処刑されました。このような結果を見ると家康と三成は仲が悪い関係だったのかなと思ってしまうのかと思われます。大河ドラマでも対立している感じのシーンが多いからそう思うのも無理ないですけどね。やはり歴史って結末で印象が決まると思っても過言ではありません。ですが、三成と家康ははじめから仲が悪かったわけではないです。むしろ、そのような史料はないんですよね。これを見ても仲が悪いってわけでもないかと思われます。じゃあ実際はどうだったのと思いますよね?

 

家康と三成は仲悪くはなかった!

三成と家康は仲が悪そうなイメージがありますがそうではありません。それには証拠はあります。ですので、その話からしたいと思います!

1.仲の悪い証拠がない

もし嫌いで嫌いでしょうがない場合だったら文面で書くんですよね。私がTwitterであれこれ書いているような感じだと思えばいいです。これは仲良かった場合も同じようなことが言えるのかと思われます。ですが、そのような文面は今のところないです。三成にも家康にもないそうです。これ嫌いだって文面が出ない可能性の方が高いです。だって2人は関ヶ原で戦ったんですよ?となれば嫌ってたらとっくのとうに嫌いだという文面が出てくるはずです。このように、嫌いだという証拠がないため嫌いあってて戦ったわけではないことがうががえます。

2.本当の関係性

これで嫌っていないってことは分かったと思います。じゃあ、本当の関係はどうなのって思いますよね?初めに言いますがニコイチな感じでもないです。ニコイチならはそれもそれで書きますからね?まあ、ニコイチでなくても強い思いがあれば書いてます。ですが、それすらもないです。となると、二人は嫌ってもないけどビジネス上の関係って距離感だったのかと思われます。仕事仲間であっても飲みに行くなどプライベートな関係はないくらいの存在と思えばいいですかね?

2人のポジション

五大老・五奉行制度という秀吉が設けた政治システムがあります。簡単にいうとそれぞれ5人ずつの老中や奉行が統治にあたる感じです。五大老は政治の中枢を担いました。一方で五奉行は民政・軍事などの実務にあたり、豊臣政権の実権を握っていました。このように、やることを分けて政をしていました。平穏な統治が行われました。しかし、五大老・五奉行制度下での政治は家康と三成の対立の影響で崩壊していきます。

認め合っていた部分もあった

家康と三成は敵対することが多かったもののお互いを認め合っていたとされています。
なんか関係性が良くなかったと言われる前の時期には互いに非常に高い評価を持っていたと言われています。どうやら互いの戦術や武勇を認め合っていたと言われています。

なんで争ったのか

まあ、色々あったものの、家康と三成は犬猿の仲ってわけでもなかったんです。ですが、最後の最後に関ヶ原の戦いでバトルをしました。ではなんで争ったのか?

1.内部争い

秀吉が死んでから後継者争いが起きました。その際に三成と家康が秀吉の後継者について意見が違いました。三成は秀吉の遺言に従って豊臣秀頼を後継者にしようと言いました。一方で家康は自身の権益を守るために豊臣政権からの独立を目指しました。そのため、バトルが始まりました。初めは三成が武断派から襲われそうになったことをきっかけに家康は三成を蟄居させました。その方が武断派も落ち着きますからね。それから家康は独立に向けて動こうとしました。これを見た三成は立ち上がりました。秀頼を蔑ろにして何してるんだみたいな感じでしょうね。これが関ヶ原の戦いのきっかけです。ようするに、秀吉の死んだから意見の違いが生まれて関ヶ原の戦いに至ったということです。

2.家康が天下を取る

みなさんお分かりかと思いますが家康は東軍として、三成は西軍として関ヶ原の戦いに挑むこととなります。その際に家康は西軍の有力な武将に戦いに勝ったら褒美をやるから東軍に寝返れという手紙を送り味方を増やしました。この例が小早川ですね。彼は当日になって東軍に寝返りました。それ以外にも毛利は西軍の総大将なのに当日動きませんでした。これは毛利だけではないです。そのため三成は負け家康は勝ち天下統一のための準備をしました。

三成の子供を助けた家康

関ヶ原の戦いで負けた三成は六条川原でしょけいです。ですが、子孫たちは罰せられず生きました。まず三成の子供たちは津軽為信に匿われます。本来なら裁かれるものの家康がそれを黙認しました。その理由については定かではありません。ですが、共に仕事をしてきた関係ということから子孫たちな助けたのかもしれません。その時点で二人の関係は犬猿の仲ではないことが分かるかと思われます。

まとめ

どうする家康で三成のキャッチコピーが家康が最も戦いたくない男と言っています。これはある意味あっているのかなと思われます。確かに三成と家康はニコイチみたいな関係ではないです。ビジネス上の仲ではあったと思いますがそこで対立していたわけでもないです。むしろ、豊臣家のために頑張りあっていた仲だと思います。それだけど秀吉がいなくなってから内部争いが起きた影響で関ヶ原が起きたのかなと思います。ただ、2人とも平和な世の中を作りたいという気持ちはありました。だからこそ、本当ならば2人で力を合わせてたら面白いことになっていたのかなとは少しは思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう