三井の基礎を作った!三野村利左衛門の人生

どうも、りかちゅうです!三井という名前を聞いたことはあるかと思われます。三井銀行、三井物産のことですね。まあ、三井と言ったら三代財閥の1つでもらありますから知らない方が事件ですwwwwww。それで、三井の立ち上げに携わった人がいます。それは三野村利左衛門という人です。その方に関しては後ほど話しますが勉強ができなかった環境なのにもかかわらず組織をまとめる能力がありました。また、この人無くして三井はないと言っても過言ではないです。まあ、創業に携わったと言っても過言ではないです。ですので、三野村利左衛門についてこの記事で話したいと思います!

三野村利左衛門のプロフィール

恒例ですが三野村利左衛門のプロフィールについて書きました!

 

名前 三野村利左衛門

生年月日 1821年12月4日

出身地 庄内藩、鶴岡

今の山形県と思えばいいです。

没年 1887年2月21日

性格

社交的で人脈を作ることが得意だったそうです。このような性格だったことから出世したと言っても過言ではないです。また、出世をしていない時代は真面目に仕事をする人でした。そのため、出世の道が開かれたのかなと思われます。

三野村利左衛門の人生

以上がプロフィールです。では、本題でもあるどんな人生を歩んだのか?

1.浪人生活

1821年に三野村利左衛門は庄内藩士・関口松五郎の次男として鶴岡で生まれました。とはいえども、松五郎は藩主の家中・木村家に養子に出されますが、1827年に家を出ていったことから三野村利左衛門は松五郎と共に諸国を流浪することになりました。初っ端からなかなかの人生ですね。

2.江戸にゆく

そんな中、江戸へ出てくるのは1839年です。旗本・小栗上野介忠順につかえたそうです。その際、三野村利左衛門はまじめに働いていたので評価されていたそうです。そして、小栗邸の前で油や砂糖の商売を営んでいる紀ノ国屋の美野川利八から婿養子の依頼が来ました。そして、1845年に利八の娘・かなの婿となった三野村利左衛門は紀ノ国屋を継ぎました。ここで行商を重ねたことで協力なネットワークを作ることができたそうです。

3.三井御用所に任命

三野村利左衛門は人好きな性格でで機転もよく効き痛そうです。それもあって、行商時代に培ったネットワークを利用して、三井家に様々な情報をもたらすと大番頭に任命されました。現代風に置き換えるとアルバイトから重役になる感じです。また、三井のピンチを救ったことから幕府御用金の一切を取り仕切る「三井御用所」の責任者となりました。ピンチネタは後ほど話します。

4.三井銀行の設立と晩年

第一国立銀行が発足した直後、世界的な金融高騰のあおりを受けたことで、小野組は力尽き倒産します。そこで、三野村利左衛門は政府に働きかけたことで第一国立銀行の実質的な支配者となりました。ただ、大蔵省官僚であった渋沢栄一は、合同出資としての銀行を目指していたため銀行は三井の銀行にあらずと激怒したそうです。そんな中でも三井銀行を設立しました。その後は呉服業の分離、三井物産の創設、明治政府への資金援助等、多岐にわたる活躍をしましたが、1877年にこの世を去りました。

三野村利左衛門のすごいところ

三野村利左衛門の人生はこんな感じです。それで、彼にはすごい一面があります。ですので、今から話しますね!

1.無学の偉人

たしかに、三野村利左衛門は華々しい活躍をしたとは思います。ですが、病魔に侵され、三井銀行の開業式典にも出席できませんでした。尽力尽くしたのに行けないのはざんねんですね。そして、1877年にいなくなりました。

それで本題なんですが、三野村利左衛門の幼少時代は諸国を流浪したので、非識字者に近かったです。ですが、無学でありながらも物事の見通しは鋭く、行動力に富み、組織をまとめることのできる人材でした。何者だと思いますよね。普通ならばそれなりに勉強しないとできないことです。それ故に渋沢栄一は三野村利左衛門を無学の偉人」と称したました。ちなみに渋沢栄一はこのような発言をしました。

あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった

おそらく、先天的なものがあるのかもしれませんね。

2.三井銀行の設立

明治になり三野村利左衛門は銀行の設立を目標としました。そのためにもまず、「為換座三井組」による貨幣制度改革など明治政府の金融政策面で支えた三井組は単独での銀行設立を狙いました。ですが、渋沢栄一に反対され、明治6年1873年に三井・小野両組合作による「第一国立銀行」を発足させました。第一国立銀行に関してはこちらの記事を見てください!

渋沢栄一が作った!第一国立銀行ができた経緯

 

ただ、三野村利左衛門は単独設立をあきらめず、小野組が倒産をした後に第一国立銀行から手を引いた1876年に日本初の民間銀行「三井銀行」を開業をしました。

ちなみに、銀行の由来に関して三野村利左衛門が携わっています。渋沢の伝記によると渋沢栄一は洋行の「行」の一字に「金」を加え、金行にしようという提案をしました。ですが、三野村利左衛門は銀行の取引には銀もと答え、「銀行」となったそうです。

3.幕府御用金の減免に成功

三野村利左衛門 佐幕か勤皇、どちらにつくかを見極めていた幕末に三井の窮状を救い、幕末維新期の三井の大番頭の1人でもありました。その当時、三井では度重なる莫大な幕府御用金の重圧に苦慮していたため減免・分割せねば経営できない状態でした。その金額は元1864年から1866年の3年間で合計266万両できた。その際、三野村利左衛門は、元勘定組頭・小田信太郎を通じて御用金150万両を3分の1の50万両に減額し、さらに18万両に減らしたことで、分納という大成果を上げることに成功しました。なかなかの交渉力ですね。

実は渋沢栄一と会っていた?

実は2021年の大河ドラマ、青天を衝下の主人公こと渋沢栄一と三野村利左衛門は会っています。時期的には渋沢栄一が欧州からの帰国の途に着いた時です。1868年11月3日に幕府使節一行が乗った船は横浜に着港しました。もちろん帰国直後であったため、持ち帰った荷物の取扱いや欧州滞在中の経費精算などで多忙を極めていました。ただ、そうしたなかで渋沢栄一は三井の大番頭三野村利左衛門と面会したそうです。ただ、その時は一時の会見だけに過ぎなかったそうです。実はそんな時期から2人は会ってるとは思ってもないことですね。しかも、その2人は後々銀行関係で縁があるとはその当時は思ってもなかったかと思われます。

まとめ

三野村利左衛門について書こうと思ったのが青天を衝けきっかけです。まあ、日本史の教科書にもこの方の名前載ってないですかね。意外と財閥作った人って教科書に載らないんだなと思うこの頃です。それで、先ほども述べましたが三野村利左衛門は青天を衝けの主役こと渋沢栄一とバトルをしていたからこそ気になってネタにしました。書いてみて気付いたこととしては人たらしな人であることです。交渉力やら人脈形成など相当のセンスがないと得られないものです。まあ、あの時代のお偉いさんですから何かしらの闇はつきものではありますが三野村利左衛門はしごできであるのは間違ってはいないなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう