渋沢栄一が作った!第一国立銀行ができた経緯

どうも、りかちゅうです!皆さん銀行って誰が作ったか分かりますか?分かる人もいれば分からない人もいることでしょう。答えは渋沢栄一です。ちなみに名前は第一国立銀行です。今でいうみずほ銀行です。え?日本銀行じゃないのって?そうなんです。みずほ銀行が日本で1番初めてできた銀行なんです。まあ、そんなことはさておき、江戸時代までは銀行はなかったですよね?まあ、銀行の代わりみたいのはありました。ですが、銀行というものがきちんとできたのは明治時代です。では、どういう流れで第一国立銀行が作られるようになったのか?この記事にて話したいと思います!

第一国立銀行とは何か?

まあ、第一国立銀行と言ってもどういうものかはピンとこないと思うので第一国立銀行とは何かから話しますね!第一国立銀行は1873年に渋沢栄一によって創設された日本最古の銀行です。だから、渋沢栄一は銀行の父とまで言われてるんですよね。ちなみに、国立銀行条例に基づいて設立された銀行です。それもあって、民間資本による民間経営の株式会社であるものの、国立銀行条例によって発券機能等を持っていました。設立時の資本金は250万円で、設立とともに渋沢栄一はは総監役として同行の経営に参画しました。

国立銀行を作るきっかけ

以上が第一国立銀行の概要です。にしても、江戸時代までは銀行って括りがなかったのに何で作るようになったんだよと思いますよね?ですので、今からその話をしたいと思います!

1.アメリカのやり方

銀行の設立に関しては明治政府にとり大きな課題となっていたそうです。まあ、ないものを作るとなるとそうなりますよね。それで、政府は大蔵少輔伊藤博文の建議に基づいて、アメリカの のナショナル・バンク制度にならった発券銀行制度を導入することを考えました。

どういうことかと言いますと、アメリカは南北戦争の時代に北部政府はグリーンバックの増発によるインフレ抑制のために1863年、国立銀行(national bank、国法銀行)を設立しました。そして、国立銀行による銀行券発行について規定する全国通貨法が制定されました。これによって南北戦争以前の複数通貨からグリーンバックと銀行券が流通する単一通貨の制度となりました。この国立銀行制度を取り入れたのが日本から渡米し、現地視察を行った伊藤博文です。昔は貧乏だったのに、海外の力でこんなことできたんですね。あえて皮肉に言ってみました。そこら辺は分かる人には分かります。

2.政府内での対立

一方で、イングランド銀行をモデルにした中央銀行制度を導入するべきと主張した吉田清成との間で銀行論争がありました。意見の対立ってやつですね。結果としては井上馨の裁断によって伊藤博文の意見が通りました。ちなみに、伊藤博文の意見を起案した人の中に渋沢栄一がいます。

そして、1872年11月に国立銀行条例を制定してから国立銀行が4つ設立され、銀行券発行が始まりました。その当時は銀行券の発行条件が厳しかったので設立されたのは4つだけでした。ですが、のちのち、条例の改正などにより全国的に銀行設立ブームが起こり、153個のの国立銀行が誕生しました。

名称の由来

国立銀行という名称は、第一国立銀行の設立者であり、初代頭取となった渋沢栄一が名付けました。でも安直な考えますよ。アメリカの制度ことナショナル・バンク(連邦法に準拠して設立された銀行)の訳語として名付けただけですwwwwww。ただ、文字通りの国立の銀行ではなく、政府とは資本関係のない民間の銀行ではありました。

どのような経緯で作られたか?

国立銀行の作られ方はこんな感じです。では、どう言った経緯で第一国立銀行ができたのか?

1.殖産興業政策のための銀行

銀行をどう作るかに問題してたのはその当時の明治政府は殖産興業政策の遂行と健全な通貨制度の確立をしたいと思っていたからです。そこで、近代銀行制度の確立を急務と考え国立銀行条例を制定しました。その最初の模範となる銀行が第一国立銀行で設立を積極的に勧奨しました。その先駆けとなった1人が渋沢栄一です。その際に合本主義(いわゆる株式会社制度と思ってもらえればいいです)の考え方により、広く民間資金を集める事を考えました。そこで、旧幕時代から両替商の重鎮として力があった三井組と小野組を大口出資と協力を得て誕生しました。でも、この二方も初めはやりたくないって感じだったんですよね。なんか、自分達でやりたい的な感じで。ただ、色々説得して協力してくれました。

2.資本金250万円からのスタート

先ほども述べたように資本金250万からスタートしました。それで、250万円のうち、三井組、小野組が各100万円を拠出した。当時の250万円って今でいうとどれくらいの価値なんでしょうね?想像を絶するくらいかと思われます。一円ですらも高額ですからね?まあ、そんなことはさておき、三井組、小野組それぞれから頭取を選任する一方で、その上に経営の最高責任者である総監役を置きました。誰かと言いますと、総監役は政府にあって国立銀行条例の立案にあたり、三井組と小野組を勧奨して設立を準備した渋沢栄一です。もちろん、政府の仕事を辞めて就任しました。まあ、あの時色々あったから辞めたのもあるんですけどね。

3.しょっぱなからのピンチ

本店における創立総会は1873年6月11日です。そして、7月20日に本店と横浜、大阪、神戸の三支店で営業開始。12月には行章として赤い二重星を大蔵省に届けました。ただ、翌年の1874年11月になんとピンチが起きました。内容としては政府の一方的な金融政策の急変により小野組が破綻し、小野組関連貸出等が回収困難となり経営危機を招きました。そこで、小野組保有の株式100万円の資本減少を行い、総監役を廃止し渋沢栄一が単独で頭取となる新体制を敷き危機を回避しました。渋沢栄一強いですね。

渋沢栄一の本邸

第一国立銀行創設後の1888年に渋沢栄一は深川福住町(江東区)から日本橋兜町に本邸を移し、日本橋兜町を日本経済の中心地として発展させていきました。具体的には東京証券取引所は渋沢栄一達の出願により発足した日本最大の証券取引所ですからね。また、兜神社は東京株式取引所の関係者によって創建されました。こういった経緯から日本橋や茅場町駅って金融関係の会社が多いんですよね。アールエム時代にとか証券を見ながら通勤してましたもん。

ちなみに、渋沢邸は現在の日証館の地にあったそうです。また、屋鋪を設計したのは、東京駅丸の内駅舎などを手掛けた辰野金吾だそうです。そして、1901年に王子飛鳥山邸を本邸とした後は、日本橋の方は事務所として使用されていました。ですが、1923年に関東大震災で焼失したらしいです。

まとめ

みずほ銀行の金融コード番号って分かる方いますかね?なんと0001なんですよ。私自身アールエム時代で契約の際に金融機関コードを書くことがあったので覚えるようになりました←。でも、なんで0001なんだよとは思っていました。なんの意味があるのかなと。それで、この記事を書いて納得しました。日本で初めてできた銀行だから0001なんだと。まさかそこまで繋がってるとは思ってなかったです。となると、金融機関コードって設立した順番なのかなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました、

 

りかちゅう