源氏の大敗北と墨俣川の戦いと義円

どうも、りかちゅうです!鎌倉殿のコラムで2回連続「ゴミ屋敷とトイプードルと私」をパクったキャッチコピーかよって?今回のテーマ的にそれがぴったりとはまってしまったんです。。まあ、そんなことはさておき、源平合戦の時系列が分かる人ならば源氏が優勢になっている中、墨俣川の戦いは源氏は負けた事実は知っていると思います。これはかなりダメージですね。とか言っても平家も勝ったところでそこまでリターンはないんですけどね。それで、墨俣川の戦いで義円という源氏の血筋がある(頼朝の兄弟)がいなくなりました。この史実は何気ないハイライトです。ですので、この記事にて義円の人生や墨俣川の戦いについて話しますね!

義円のプロフィール

義円がどういう人かを知るためにも義円のプロフィールから見ていきましょう!

※肖像画がなかったので「鎌倉殿の13人」で義円を演じた成河さんの写真を載せますね!

名前 義円(源義円)

生年月日 1155年

出身地 京都

幼名 乙若丸

父母も同じ兄弟には若丸が付いてます。

没年 1181年4月25日

備考

平安末期の僧侶で源義朝の8男です。ちなみに母は常盤御前で同母兄に阿野全成(今若丸)や義経(牛若丸)がいます。じゃあ頼朝とは兄弟じゃないなかって?違います。お母さんが違うだけなので異母兄弟です。ちなみに兄弟はたくさんいたそうです。

義円の人生

以上が義円の概要です。ちなみに義円の人生に関しては詳しく書かれていないです。マイナーな人ですしね。ですが、切ない終わり方です。ですので、今から話しますね!

1.義円生まれる

1155年に義円は生まれました。詳しいことはそうないです。ただ、1160年に平治の乱で父の源義朝が敗れたことで仏門に入れられました。子供だけはなんとか助かったんですよね。それで、義円は園城寺にて出家して卿公円成と称しました。そして、後に後白河天皇の皇子・円恵法親王の坊官となりました。ちなみに義円なんですが1180年に伊豆にいた頼朝に同調し、お父さんの源義朝から一字をとり「源義円」と改名したそうです。

2.27歳にて戦死する

1181年に叔父の源行家の挙兵に参加しました。それが墨俣川の戦いです。ちなみに源行家は疫病神扱いされていたそうです。それもあって、挙兵しても助けてくれなかったそうです。ですが、義円だけは京都にいた頃に行家の世話になった事があったため源行家の味方となりました。

とりあえず源氏の戦況はグダグダでした。なんか源行家と義円とで先陣争い・主導権争いにもなり足並みがそろわなかったそうです。源行家は疫病神であるのはこういうことですね。それで、義円は単独で敵陣に夜襲を仕掛ることにしました。一応敵陣に秘かにもぐりこんだようです。ただ、渡河して服が濡れていため見破られて平家の家人・高橋盛綱に討ち取られました。享年27歳です。

27歳でいなくなるなんて儚いものですね。義円に関しては嫌われていることはなかったので源氏側からしたらロスであったと思います。他にも尾張源氏の泉太郎重光らも討死ししたり源行家の息子こと源光家らは平忠度に捕縛されました。一方で源頼朝を頼って相模に逃げました。ですが、頼朝は塩対応しました。その話は後ほど話したいと思います!

墨俣川の戦いとは

義円が命を落とした墨俣川の戦い。一体どんな戦いだったのか?墨俣川の戦いとは源氏と平家が繰り広げた源平合戦(治承・寿永の乱)戦いの一種です。時系列的には中盤以降ですね。この戦いは源氏が優勢となったことから次第に滅亡へと向かう平氏方が勝利を収めた戦いでした。源氏の敗因は軍の規模が雲泥の差だったことと爪が甘かったからです。

墨俣川の戦いの流れ

以上が墨俣川の戦いです。では、どういった流れだったのか?

1.平家が再び立ち上がる

平家が富士川の戦いで源氏軍に敗れると反平家の動きは拡大ししました。裏で嫌っている人は意外と多かったということですね。それ故に美濃、近江などでの反乱の挙兵が相次ぎました。とは言えども、平家は反乱を制圧しました。そんな中頼朝の叔父・源行家が進出したとの報を得ました。そこで再び出陣しようとします。

2.平清盛の死

平家側も色々ありました。実は1181年に2月4日、平清盛が死去しました。それ故に出撃は一時中断しました。これは源氏側にとっては最高な話です。そこで源氏は京へ攻めます。これは平家にとってはピンチです。迎え討つために平家は清盛の息子こと平重衡を総大将として軍を派遣します。そして3月10日、両軍は墨俣川(今の岐阜県大垣市)を挟んで対峙しました。

3.行家の勝手な行動

軍勢的にはどうだったのか?推定としては平家は3万でした。一方で源氏5000から6000程度でした。え?優勢なのに源氏はこんな感じなのかって?実は色々ありました。源行家は頼朝と折り合いが悪く半ば以上、独断専行していました。また、評判も悪かったことから大半の人が相手にしませんでした。とにかく、人望がないって思っておけばいいです。

4.衣服が濡れてしまったことがバレる

義円が夜襲をしよう考え一人で勝手に動いてしまいました。その際に義円は川を渡って敵陣に紛れ込んで夜襲を企てました。ですがこの計画はバレました。流れとしては昔の時代のようにどこにでも橋がない時代ですから、川を渡るとなれば歩くしかないですわ、となると当然服が濡れます。それを平家側に見られてしまったのです。それ故に討たれてしまいました。もちろん、この失敗から源氏はボロ負けで久しぶりに平家側が勝ちました。清盛がいなくなったのに平家側は勝てたということですね。まあ、源氏側もグダグダでしたしね…。

墨俣川の戦による影響

結果的には平家が勝ちました。ではこの戦いによって双方はどのような影響があったのか?

源氏の場合

敗北したのに何故か源行家は鎌倉の頼朝に所領を求めました。もちろん認められないです。それで、頼朝との関係が悪化し姿をくらましました。その後、木曽義仲と結び、最期は後々頼朝と対立する義経と運命を共にすることになります。なんか、義経と運命を共にする時点で源行家は負けてしまう運命みたいな感じしかしないです。

平家の場合

先ほども述べたように平家は勝利したもののそんなにリターンはないです。どういうことかと言いますとそれ以上東へ進みませんでした。頼朝の援軍に対して警戒していたり後白河法皇と宗盛の反乱軍への追討方針で対立していたりしたからです。また、飢饉の影響で兵糧の不足だったため進出はできませんでした。そこで、平家は反乱鎮圧のために畿内、西国へ向けるようになりました。その後平家が北陸の反乱勢力を討つために軍を派遣したこたで俱利伽羅峠の戦いに進展していきます。

まとめ

書いてみた感想としては2つあります。まず墨俣川の敗因はどう見てもチームワークがないです。別に源氏だって兵力がなくても勝ててたときは勝てていたはずです。それなのに、ボロ負けしたのはチームワークがないからでしょうね。まず源行家がこんなにも人望がないのは驚きでした。また、疫病神扱いされているのには笑いました。

2つ目は義円はかわいそうではあるものの僧侶で戦の知識が薄いから討たれたのかなと思います。義経も源平合戦以前は経験はないものの奥州藤原の元で育てられたから環境は良いです。一方で義円はそう言ったことはないです。それ故に悲しい結末になったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。