息子と妻を追いやる?築山殿・松平信康事件とは何か?

どうも、りかちゅうです!家康の初めての奥さんは築山殿です。これは歴史に詳しい人ならば百も承知の話です。ですが、家康のことをよく知らない方は歴史がすごく好きな人でないと家康のはじめの奥さんこと正室のとこは知らないかと思われます、なぜなら、家康が有名になっている時にはもういなくなっているからです。処刑されたが正式ですね。マジかよと思う方はいることでしょう。また、それだけではないです。実は家康の後継ぎこと秀忠は嫡男ではないです。嫡男は松平信康という男です。その人も築山殿と同じ時期に処刑です。なんでダブルでとおもいますよね?それは2人とも築山殿・松平信康事件で追いやられたからです。では、一体どんな事件だったのか?この記事にて話したいと思います!

2人を追いやった理由

築山殿・松平信康事件とは1579829日に家康の正妻築山殿が家康の命令により殺害されました。また915日には築山殿と家康の間に生まれた松平信康(嫡男です)も切腹を命じられ自害したという事件です。

にしても、なんで追いやったのと思いますよね?色々説はあります。まずは松平信康の正室で信長の娘である五徳が夫婦仲が悪くなったことから信康の素行の悪さを信長に告げ口したという説がありますね。いつから悪くなったかは分かりませんが。また、嫁姑として険悪な関係だった築山殿が敵の武田家に内通したと五徳が信長に密告し、(実際に築山殿は疑われるようなことはしました)信長が家康に2人を殺せと言った説などがあります。どちらも時代劇の描写ででてもおかしくないですね。

追いやった経緯

要するに、人間関係の対立や裏切るような行動が見えたから追いやられました。では一体どういう経緯で2人は殺されたのか?

1.家康の独立

家康と築山殿の間には1559年に信康、1560年には亀姫が誕生しました。ですが、亀姫誕生した時に桶狭間の戦いで今川義元が信長に敗れて命を落とすというハプニングが起きました。なぜなら、築山殿は今川との縁が強いからです。それなのに、家康は独立して信長と同盟を組みました。それでもって信長の娘である五徳が家康の嫡男こと信康と結婚しました。これは築山殿にとって良い思いはしないでしょうね。なんかそこから夫婦仲が悪くなったと言われています。

2.徳川と武田の対立

ただ、それだけではないです。今川の領国を狙おうとした人がいました。それは武田信玄です。信玄は今川との同盟を破棄し織田・徳川と同盟を結びます。そして、
信玄と家康は永禄1568年12月に今川領国に侵攻を開始します。ですが、信玄は駿河侵攻と同時に遠江国に侵攻させたことで徳川との関係が悪化しました。そのため、家康は1570年に上杉謙信と同盟を結び武田との同盟を解消しました。その影響で信長と信玄の関係も悪化しました。要するに、織田・徳川 vs 武田という軍事衝突になってしまいました。

3.大岡弥四郎事件

織田・徳川連合軍は遠江国三方ヶ原にて戦いましたが徳川は大負けしました。武田軍はその調子で攻めました。ですが、1573年に信玄の病気が悪化したため、武田軍は撤退します。そして、その後に信玄は亡くなってしまいます。その後、武田家は武田勝頼が後を継ぎました。
武田勝頼は1574年に織田方の明智城と徳川方の高天神城等を落とし領土をさらに拡大しました。これは織田・徳川方は劣勢ですね。一方武田勝頼は1573年3月に奥三河に侵攻します。その時に徳川内で「大岡弥四郎事件」が起きました。大岡弥四郎事件とは、松平信康の家臣大岡弥四郎ら家臣達が武田家に内通した事件です。ただ、その内通は家康にバレたことで未然に防ぐことができました。また、大岡弥四郎ら家臣一派は処刑されました。詳しいことはこちらを見てください!

岡崎クーデター!大岡弥四郎事件とは何か?

 

4.築山殿と松平信康の裏切り

大岡弥四郎事件に関しては松平信康や築山殿の関与を疑う研究があります。実際に築山殿は織田と徳川の関係をよく思っていませんでした。そこで、武田と内通していたという話があります。実際にそのような動きを察知した松平信康の妻こと五徳は信長に「十二ヶ条の書状」を書きました。その際に信長に会いに行く予定のあった徳川家の家臣でもある酒井忠次に託してその書状を届けさせます。その書状を読んだ信長はもちろん激おこです。そのため、家康に築山殿だけでなく松平信康も殺害しろと酒井忠次を通して命じました。家康は信長の言い分に逆らうことができないため2人とも処刑しました。

築山殿、松平信康の処刑方法

処刑までの流れはこんな感じです。では、2人はどのような形で処刑されたか?

築山殿の場合

築山殿の元には野中重政など3人の家臣を派遣しました。野中重政達は築山殿に家康が会いたい言っているので来て下さいといって連れ出しました。その際に舟で佐鳴湖を渡っていた時に野中重政が突然後ろから「殿の命によりお命頂戴致します」と言って斬り殺したそうです。ただ、家康はこのことを誉めていませんでした。なんと、小声で「体だけ大きくて頭の回らない奴よなぁ。女なのだから尼にでもして逃がしてやればよいものを」と言ったそうです。それを知った野中重政は故郷の堀口に隠居したそうです。

松平信康の場合

一方松平信康の方には服部半蔵と天方通綱を派遣しました。服部半蔵ははっきりと「殿からの命です。切腹して下さい。」と松平信康に言いました。松平信康は自分が何したかの身に覚えがないため家康に会わせてくれと言いますが服部半蔵は許されてないことだと拒否しました。これに納得のいかない松平信康でしたが家康の命令は絶対だと思い、形見の品などを託した上で服部半蔵を介して腹をきれいに十字に切りました。ですが、半蔵は松平信康が哀れでしょうがないと思い首を切ることができません。そこで天方通綱が代わって首を切りました。享年21でした。

夫婦関係が冷え切ってたからできたこと

こんな残酷なことあるなって思いますよね?信長の命令とは言え。あるのが現実です。じゃなかったら史実になりませんからwwwwwww。ただこれ夫婦関係が冷め切っていたからできていたからできていたことです。まず桶狭間の戦いで家康が信長についた時点で築山殿はいい思いしませんからね?その時点でかなり溝はできたのかなと。さらに、しばらくしてから別居生活が続きました。その間家康は側室を作りまくっていたそうですし?このように、夫婦仲は仲良くないです。松平信康のことはどう思っているから分からないですが別居生活の時期から疎遠ではあったはずです。それだからこそ、信長の命令に従えたのかなと思われます。もし夫婦仲がよかったらどんな感じだったんですかね?そこら辺の世界線も考えてみたくなります。

まとめ

「どうする家康」だと感情移入するかもしれませんね。誰にだって?築山殿です。史実上の築山殿はキツい女です。また、今川を裏切ったことに嫌気を指していること間違い無いとは思います。実際にそこからどんどん崩れたって感じですし。また、別居生活が続いている時点で話すことだってそうなかったと。それなのに、「どうする家康」ではその描写が薄いのかなと。それ故にこの事件に感情移入する奴はいるのかなと思います。ですが、実際は少しずれがあることはわかって欲しいなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう