伊周・隆家のやらかし!長徳の変とは何か?

どうも、りかちゅうです!伊周と隆家が花山法皇を襲撃し左遷されるまでの一連の出来事を「長徳の変」と言います。この事件のせいで彼らは道隆の子供だったのに出世の道にいくことはできませんでした(隆家は後にあることで活躍はするんですけどね)。彼らはなんで花山法皇を襲撃したのって?伊周の恋愛事情の影響です。あんな勘違いをしなければ左遷まではなかったのにと思います。そんな内容じゃわからないって?そうですよね。ですので、この記事にて詳しく話しますね?

長徳の変が起こる前の状況

長徳の変が起こる前から騒がしい感じのことが起きていました。ですので、長徳の変の前の話からしたいと思います!

1.道隆が栄えていた時代

兼家がいなくなってからは兼家の嫡男こと道隆が後を継ぎました。これがデフォルトなんですけどね。ちなみに、道隆を中心とした一族を中関白家といいます。伊周と隆家はその家の1人です。もちろん、この2人は道隆の後ろ盾があるため初めのうちは明るい将来が約束されてはいました。肝心なのは初めのうちですからね?

2.道隆の死

995年年4月10日に道隆が急死しました。原因は酒の飲み過ぎによる糖尿病だそうです。道隆の後を継いだのが道隆の弟の道兼でした。伊周が後を継げなかった理由はこちらに書かれています!

なぜ伊周は道隆の後継者になれなかったのか?

しかし、道兼は関白になってから7日後に道隆を追うように流行り病で亡くなってしまいました。

3.伊周と道長の対立

道兼がいなくなった影響で道隆の後任の座をかけ道隆の弟こと「道長」と道隆の息子の「伊周」が対立していくこととなったのです。それを示すエピソードのひとつとして、995年7月24日に道長と伊周が凄まじい口論をしていたことが小右記に残っていたそうです。その小右記にこのように書かれています!

その様子はまるで闘乱のようだった

また、近くに居合わせた人々は何事かと驚きつつも壁を隔てて口論に聞き耳をたてていたそうです。

4.隆家の召使が起こした事件

ただでさえ対立がすごいのにそれに煽るようなことが起きます。それは伊周の弟である隆家もやらかしです。詳細としては道長と伊周の激しい口論から3日後に今度は道長の召使と隆家の召使が乱闘騒ぎを起こしました。その後、8月2日には隆家の従者が道長を警護していた者を殺害してしまうという大惨事も発生します。これはもう道長と伊周・隆家の関係は極めて険悪なものとなりました。

長徳の変の流れ

以上が長徳の変が起きる前の出来事です。道長と伊周の対立は大きく影響しますね。そんな時に長徳の変が起きたことで伊周・隆家はマイナスになります。ではこの変はどのようなものなのか?

1.伊周の勘違い

伊周は藤原為光という人物の三女と恋仲でした。また、長徳の変で弓を射かけられた花山法皇は同じく藤原為光の四女と恋仲でした。この事実がどうしたのって?実は伊周は¥花山法皇は三女に手を出していると勘違いしてしまい花山法皇に疑念を抱くように陥りました。花山法皇は四女と恋仲だぞと突っ込みたくなりますね。それでも、その勘違いに気づけないことから伊周は弟の隆家に相談します。

2.花山法皇の襲撃事件

相談内容を聞いた隆家は花山法皇を懲らしめる作戦を伊周に提案します。内容は弓を射かけて花山法皇を驚かしてやることです。これは実行されました。どうやら996年1月16日の夜に藤原為光四女の家から帰宅する途中の花山法皇に対し隆家の従者が弓を放つという暴挙をしたそうです。結果として放った矢は花山法皇が来ていた着物の袖を射抜きました。なんか一歩間違えれば命にかかわる大事故になりかねない状況だったそうです。また、一説によると隆家の従者はこの時に花山法皇に付き従っていた子供2人の首を切って持ち帰ったとも言われています。

3.伊周・隆家の左遷

以上のような事件を起こしてしまった伊周と隆家兄弟の行為は大問題になりました。そりゃ出家していたとはいえ天皇だった人物に弓を射かけたのだから問題になるのは当たり前です。また、同じようなタイミングで詮子が病気になったことも2人にとってマイナスは方向に至りました。それは伊周が呪いをかけているからだという噂が広まることです。また、それ以外にもいくつかの嫌疑をかけられた伊周と隆家への処罰はいよいよ避けられなくなり2人は京都から追放されることになりました。

その後の道隆ファミリー

996年4月28日に伊周と隆家の左遷が決定されましが病気を理由に出頭命令を拒み続けました。なんか邸宅に籠り、妊娠していた定子と手を取り合い決して離れようとしなかったと伝わっています。996年5月1日についに強制捜査が決行されたことで邸宅内に検非違使突入しまずは隆家が捕縛されました。さらに、定子は検非違使に乱入されたショックによりその場で髪を切り出家してしまいまいた。一方伊周は強制捜査を潜り抜け逃亡していたものの5月4日に出家した状態で戻ってきてついに左遷先への旅路についたのでした。ですが、捕まりもちろん左遷です。

 

枕草子に長徳の変が書かれている?

以上が長徳の変の流れです。 じつはこのネタは枕草子に載っているそうです。「上にさぶらふ御猫は」という章段で間接的に書いているそうです。この章段は一見すると宮廷で起こった一匹の犬を巡るエピソードではあります。ですが、実は長徳の変で左遷された藤原伊周と藤原隆家の姿を描いているのではないかと言われています。

 

まとめ

花山天皇も法皇になっても遊んでいますね。さすがの遊び人です。ただ、伊周が勘違いをしなかったらどんな世界線になっていたんですかね?きっとここまで叩かれることはなかったのかと思われます。それか道長との対立が悪化することでの事件が発生するのか。これは想像にお任せですがさすがに天皇だった人に乱暴なことをしたのはマイナスでしたね。これ見ても伊周と隆家は坊ちゃん育ちを棒に振るったなとおもいました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。