なぜ伊周は道隆の後継者になれなかったのか?

どうも、りかちゅうです!「光る君へ」を見ている方ならば分かると思いますが兼家がいなくなってからは道隆は後継ぎとなりました。それもそうですね。後継ぎとは嫡男がやるものですからね。もちろん、その嫡男がいなくなったら次男が後継ぎとなりますけどね(それ以降もいなくなったらその次の人です)。となると、道隆がいなくなってからの後継者は伊周になるはずなんですよね?その当時の伊周はキッズではないから後継者にはなれますからね?ですが、色々あってなれませんでした。道長との対立で勝てばワンチャンでしたが残念ながら敗れてしまいましたからね。にしても何があったんだよって?話すと長くなるので今から話しますね!

後継者は基本的には嫡男が継ぐもの?

先ほども述べたようにそういうものですね。上の立場の人に息子がいるならばそういうものです。もちろん息子の中でも基本的にはまずは長男になりますね。ただ、長男が死んだり、相応しくなさすぎたりしたら次男など次の候補の人が後継者として選ばれます。これは今の時代でも同じような感じですね。家業は長男が継ぐものみたいな雰囲気はありそうですしね。だからって今の時代の方が昔ほどではないと思いますが。

このように、後継者とは息子がなるものです。道隆ファミリーでいうならば長男の伊周になります。ですが、そうはいきませんでした。どうなったかというと道隆の死後は道兼(1人目の弟)が引継ぎました。理由は長くなるため後ほど話します。ですが、道兼は病の関係で7日関白で終わりました。からの伊周になるのではと思いますのね?違います。伊周は道長(道隆の2人目の弟こと)との跡継ぎバトルで負けてしまったため伊周は大人しくならざる得なくなりました。それもあって伊周は残念な人扱いはされていますね。

伊周の立場が合った期間もある!

伊周は全く立場がなかったわけではないです。道隆のおかげでなんとかなってた時はありました。ですので、そこの話からしますね!

1.道隆がいなくなる前の話

994年11月に道隆は糖尿病になったそうです。そのため、政界で活躍をするのは厳しくなりました。そこで、道隆は自分が引退して伊周に地位を譲るために辞表を提出し伊周を擁立すべく策を実行しました。詳細としては道隆に頼まれた一条天皇は関白の道隆が病気の間伊周に道隆の補佐をさせるという形で政をさせようとしました。ですが、この話を聞いた伊周は激怒しました。なぜなら、伊周は自分1人で政を行うようになると思っていたからです。その理由は後ほど話します。そのため、伊周は抗議しました。その結果言い分が通りました。ただ、その当時の伊周は22歳です。この年齢ですべてを任せるのは若すぎです。

2.文面の改ざん

引継ぎの際の文面は道隆が病気の間は伊周に任せるだったんですよ。ですが、その文面が完全に道隆から伊周に替わったかのようになっていました。要するに、道隆が病気の期間だけ伊周がやるが本来の予定でした。ですが、文面が変わったことでもし道隆の病気が回復しても伊周が牛耳れるようになりました。なんでそんな感じに変わったのか?実は文面を改めるように指示した人がいます。それは伊周のおじの高階信順です。信順は道隆、伊周のおかげで国守になるなどの恩恵を受けていた。それ故に伊周が道隆の後継者になることを強く希望し文面を改竄したそうです。ですが、その改竄はすぐに見破られたことで失敗に終わりました。

 

伊周が選ばれなかった理由

このように、親からのコネもあって上になることはできました。ですが、その時は束の間に終わりました。では、なぜ伊周は本格的に後継ぎとして選ばれなかったのか?

1.道隆の過剰な贔屓が引き金に

道隆は兼家の長男ですから道隆のの死後に関白になるのはだとうです。ですが、道隆が5年間の関白在任期間にやったことなんて大したことないです。

理由としてはすぐに病気になって寝ていたからですね。7日天下の道兼なんてもっと短命だったからそれくらいいいだろって?まあそこまでならそれくらいの考えで終わります。ですが、道隆はそれだけではなく息子の伊周を強引に出世させ地位を固めさせようとしました。この贔屓はやりすぎだったため宮中の評価を著しく落とします。なんなら一条天皇や一条天皇のお母さんでもあり道隆の妹でもある詮子にまで非難されますからね?

2.伊周の器量がなかったから

まだ贔屓があったとしてもその出世に相応しい器量なら周りに認められます。ですが、真逆です。分かる人には分かりますがヤンチャで悪さはします。そのため、道隆は伊周を代わりに関白にするように強引に運動したとしても一条天皇と詮子にまで反対されてしまいます。これは道隆・伊周親子が朝廷で評判が悪かったかという証拠でもあります。それだけではないです。このあと伊周は色恋沙汰で勘違いをしたことで花山法皇に矢を射掛けるいう大不祥事を起こしたことで流罪になります。このせいで道隆ファミリーは完全に没落してしまいました。

3.一条天皇に対する対応が悪かったから

伊周は一条天皇にため口をきいていたため本人はもちろんのこと周りからも不愉快に思われていました。 また、一条天皇の皇后である定子(伊周にとっては妹)になかなか子供ができないことにたいして嫌味を言っていたそうです。 さらに詮子に嫌われていため道兼がいなくなってからはどんどん干される運命でした。

後世ではマイナスに言われる道隆ファミリー

道隆が関白をしていた時代は後世(今の時代なってということです)では失われた五年間という扱いを受けました。親子含めてなんだったんだろうねみたいな扱いだと思えばいいです。また、後世では道隆を中継ぎの関白という意味を込めて「中関白」と呼んだそうです。

 

まとめ

嫡男こと伊周がいるならば伊周が引き継いで栄えるのがデフォルトです。これは他の時代を見ればわかりますね。鎌倉殿でいうならば時政パパの後継ぎは本来ならば満場一致で宗時兄さんです(宗時兄さんは石橋山の戦いでいなくなったので義時くんが継ぎますけどね。だとしても時政パパの次男だからそれが妥当です)。それなのに道隆ファミリーは違いました。むしろ、道隆の兄弟が継ぐことになります。これは伊周と道隆のやらかしのせいだと思います。確かにどちらもいい所はありますよ?ですが、勢いつけすぎたのは後に問題にはなったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう