家康独立の支援をした!鳥居忠吉とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!マイナーではありますが家康が独立するにあたって色々サポートをしている人がいました。その名前は鳥居忠吉です。「どうする家康」ではおじいちゃんなのに毒を吐いているあの人ですwwwwwww。その人は家康が独立するために色々動いていました。どうやら家康が今川の人質になっている時岡崎城の留守をしながらお金を貯めていたそうです。商人になりすまして色々稼いでいたそうです。なかなかのリスクがありますね。このように、彼がいたから家康は無事独立できたといっても過言ではありません。家康って家臣に恵まれてますね。では彼は一体どういう人だったのか?今から話したいと思います!

鳥居忠吉のプロフィール

まずは鳥居忠吉のことを知るためにも簡単なプロフィールから見ていきましょう!

 

名前 鳥居忠吉

生年月日 不明

出身地 三河国

没年 157257

(80歳くらいにいなくなったそうです)

備考

徳川家康の譜代の家臣として活躍した人物です。家康が人質の時に今川に隠れて、せっせと金銀食料をため込んでいたそうです。

鳥居家とはどんな家?

鳥居忠吉の子孫は熊野別当の族だったそうです。熊野別当の族とは平家に仕えていたそうです。

それで、鳥居家は鳥居忠吉のころから松平家こと家康に仕えるようになったそうです。ちなみに、鳥居忠吉の息子には、「三河武士の鑑」とも称された、徳川十六神将の鳥居元忠と鳥居忠広がいます。ただ、鳥居元忠は関ヶ原の戦いの際伏見城の留守を預かったものの、西軍の総攻撃を受け戦死しました。

鳥居忠吉の人生

以上が鳥居忠吉に関するプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?今から話したいと思います!

1.鳥居忠吉生まれる

鳥居忠吉は鳥居忠明の子として生まれます。生没年は不明です。ただ、1572年に死去した時に80歳を過ぎていたとは言われています。ちなみに鳥居忠吉の家は純粋な武士ではありません。矢作川を利用した水運で財産を築いた兼業武士だったそうです。それもあってお金を貯めることができたのかもしれません。また、松平家(家康の家)に仕えたのは松平清康が岡崎城に進出した頃と考えています。それもあって、岡崎譜代と呼ばれた家臣層に位置づけられています。

2.鳥居忠吉逃亡する

鳥居忠吉が仕えた松平清康は織田信秀と戦っている最中に家臣に暗殺されました。その際に松平家は松平清康の弟こと松平信定に乗っ取られました。もちろん岡崎城も鳥居信定の支配下です。そのため、鳥居広忠ははじめに伊勢の吉良家を頼って逃亡しましてから今川義元の保護下に入りました。そして松平信定が死んだ時に今川家の後ろ盾を背景に岡崎城を取り戻しました。こうして、鳥居忠吉は松平清康の息子こと松平広忠に仕えます。ですが。松平広忠は今川家の援助を受けるため家康を人質に出します。そうじゃないと松平家を維持できなかったのかもしれませんね。ですが、松平広忠は1549年に23歳の若さで病死しました。その際に家康は預けられたままであったため今川義元が代わりに城代を岡崎城に派遣しました。

3.今川に搾取される

その後、岡崎城の行政は鳥居忠吉と阿部定吉の2人の実務に任されていました。話は逸れますが阿部という苗字は江戸時代に登場しますね。その話はそこまでにして、行政は任されたものの、収穫物の取り分は今川家が多かったです。そのため、松平家は搾取されている状態に苦しみます。それでも鳥居忠吉はいつか家康が岡崎城の当主となる時のことを思って毎日貯蓄していました。また、副業として商いも手がけていたそうです。また、人質の家康に衣類や食料を送り続けたり駿府へ出向いて家康を励ましたりしていたこともあったそうです。

このような鳥居忠吉の頑張りぶりは三河武士団に影響を与えました。それもあってか貧しさに苦しんでも命を惜しまない三河武士の精神が誕生したとされます。

4.ついに家康に資金提供

家康は19歳で桶狭間の戦いに初陣しました。その際に今川軍の先遣隊として大高城に兵糧を運び込む仕事をしたそうです。とか言いながら心は信長にあったので信長に情報を流していました。それで、途中で今川義元が織田信長に討たれました。そこで、岡崎城に戻りました。その際に鳥居忠吉は家康を秘密の蔵に案内し今まで貯めていたお金を見せたそうです。

5.隠居する

このように資金を貯めるなど家康に貢献してきました。ですが、もう鳥居忠吉はかなり高齢になっていました。そのため、家康が独立してからは岡崎城で留守を守っていたそうです。また、それ以降の戦いには三男の鳥居元忠が従軍していたそうです。もちろん、鳥居忠吉に劣らぬ手柄を立てました。ちなみに、鳥居忠吉の長男こと鳥居忠宗は松平家に仕官して戦死していたそうです。また、次男は仏門に入っていたようです。

三河武士の元祖

家康の家臣団は団結心が強く命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけました。このような忠誠心は「三河武士」としての名声を高めます。この精神は家康を想う鳥居忠吉によって形成されたとも言われています。三河一向一揆ではバラバラになったものの、まとめてくれたのは鳥居忠吉のおかげかもしれませんね。

 

まとめ

「どうする家康」では三河一向一揆で裏切った人たちを制裁すればいいとって発言がインパクトありましたね。松本家康が頼りないから余計に笑っちゃいましたwwwwwww。そんなおじいちゃんの本当の姿は縁の下の力持ちだったなんて思ってもなかったです。今川に搾取されていた時も商業をやるなんて相当タフだなと思いました。この姿は他の家臣達に刺激を与えるでしょうね。私的には三河一向一揆で裏切った家臣達もその姿には叶わなかったのかなとは思っています。年配の方でもありますしね。とにかく、徳川家臣に刺激を与えた人であるというのは紛れもない事実かと思われます!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう