西の五代!五代友厚とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!明治時代の時に関西地方こと大阪で経済活動をしたり鉱山事業をやった人はご存知ですか?そんなの知らないって?まあ、その人は学校の教科書にはそこまで載らないですからね。そんなことより早く言えよぅて?すいません。その名は五代友厚です。私は2021年の大河ドラマこと「青天を衝け」でこの方の存在を知りました。おそらく、塾で習った人のはずなのに忘れていました。まあ、そんなことはさて置き、とりあえずこの人は明治時代において知っておく人です。ですので、この記事にて話したいと思います!

五代友厚のプロフィール

まずは安定ですが五代友厚のプロフィールを作りました!

前 五代友厚

生年月日 1836年2月12日

出身地 薩摩藩←今でいう鹿児島

没年 1885年9月25日

幼名 徳助

その当時大阪の経済はボロボロだったそうです。そこで、大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

五代友厚の人生

まあ、プロフィールとしてはこんな感じです。私的には薩摩藩出身の時点で明治時代に活躍した輩だと察知しました。明治維新は薩長の人が多いですからね。そこは覚えておくべき点です。まあ、そんなことはさて置き、五代友厚はどんな人生を歩んでいたのか?

1.薩摩に生まれれる

五代友厚は幕末から明治時代に活躍した実業家で1835~1836年に今でいう鹿児島県こと薩摩に生まれました。五代友厚の父・五代直左衛門秀尭(なおざえもんひでたか)の薩摩藩の記録奉行で11代藩主島津斉彬の側近くに仕えていました。そのような環境だったからなのか14歳の時に世界地図を模写するよう命じられ、自作の地球儀を作ったそうです。そして、この地球儀で世界の距離を測り、航路を想像していたそうです。海外への関心はその時からあったんですね。また、島津斉彬から開国思想と富国思想を強く受け継いでいたことから薩摩藩富国路線の最前線で活躍を見ていったそうです。

2.長崎の海軍伝習所に行く

1857年に五代友厚は薩摩藩によって長崎の海軍伝習所に派遣されました。ちなみに薩摩藩からは五代含め16人が派遣されました。ここで五代友厚は航海術・砲術・測量・数学などを学びました。また、商人のトーマス・ブレーク・グラバーと交流を持ち国際感覚を身に着けていったそうです。この時点で完全にあっち側に乗っ取られた感じでしかないですね。それ以外にも勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作と出会う機会があったそうです。若いのにいろんな出会いがあったんですね。

3.薩英戦争のピンチ

1863年9月14日に薩摩藩士が生麦村で島津久光の駕籠に近づき行列を乱した騎馬のイギリス人を殺傷するという事件が起きました。生麦事件ってやつですね。それで、五代友厚は

戦争回避のためイギリスと交渉を目論見ましたがこの事件のせいで起こった薩英戦争では乗っていた蒸気船ごと拿捕され、イギリスの捕虜となってしまいます。また、たとえ開放されたとしても責任を追及する声、イギリスとの内通を疑う声があり、大変ではありました。ですが、五代友厚は藩に「上申書」を提出し、上海貿易や、英仏への留学の必要性などを提案したことから帰藩することができました。

4.イギリス留学とパリ万博

1865年に五代友厚を含めた薩摩藩使節と留学生計19人が,イギリスへ向かいました。その際に商社合力」いう共同出資による事業方法を学んだそうです。また、留学中に薩摩藩としてパリ万国博に出展することを提案しました。なぜなら、天皇の下に徳川と薩摩は同等だと諸外国に知らしめたかったからです。もちろん幕府側と軽く亀裂は入りましたが。それで、薩摩焼を出品し、ヨーロッパで高い評価を得ることになりました。

5.大阪経済の復興

国際経験の豊かさが評価され五代友厚は外交問題の解決に奔走しました。また、1868年2月には新政府の参与職外国事務局判事になったことから大阪在勤となり、大阪開港事務に携わりました。また、幕府の金銀貨幣は質にバラつきがあったことから国際的に通用する通貨が必要とされていました。そこで、トーマス・グラバーの斡旋で香港から英国造幣局の中古機械を購入し、大阪造幣寮を設置しました。さらに、大阪の有力両替商らを説得し、大阪に為替会社・通商会社設立を設立しました。

6.官を辞めて大阪へ

横浜に転勤し2か月で退官しました。その後は実業家に転身しました、らまず、大阪に戻り、維新後の社会の激変によって疲弊していた大阪経済の立て直しをしました。大阪に為替会社、通商会社設立したり、鉱山事業を立ち上げたりしました。また、大久保利通の要請で、政府要職を辞した木戸孝允と板垣退助を政府に呼び戻すことを努めました。

五代友厚の実績

このように、幼少期から頭が冴えていたり、幕末ではいいポジションではありました。まあ、逆を言えばとある組織の捨て駒の1人でもあるんですけどね←。まあ、そんな五代友厚にはどんな実績があるのか?

1.鉱山事業の立ち上げ

五代友厚は欧米で先進文明に触れていました。青天を衝けでも海外に行くシーンはありましたしね。そこで国家富強の財源として鉱山事業に着手しました。これは国民にとってはいいことなんですかね?それで、1871に年に天和銅山(今でいう奈良県)の取得を取得したことで開鉱や買収など合計26カ所の鉱山を所有しました。それ故に鉱山王と呼ばれるまでになりました。石油王みたいな言い方ですねwwwww。また1873年には所有する鉱山の経営統括機関として「弘成館」を設立しました。これは従来の日本にはない近代的経営組織だったそうです。

2.数多の事業

当時の大阪で五代友厚が関わらなかった事業はないとまで言われています。西の五代のすごさが現れますね。ですが、携わった事業は私利私欲に走るものではありませんでした。むしろ、全て国益を重視したのもでした。国益とは言えどもという点はありますけどね。まあ、それもあって五代の事業は今に残るものは少ないです。それ故に大阪に生まれ育った人でも五代の名を知る人は少なかったそうです。私的には世間的にも知名度は低いのかなと思いますが。ですが、五代友厚のおかげで多くの企業が生み出され、後の大阪の発展の礎となりました。影薄い人ではありますが五代友厚がいなかったら成り立っていない一面はあるのかもしれませんね。

西の五代!東の渋沢!:渋沢栄一との接点

実は「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一と五代友厚は接点がありました。もちろん、2人は顔合わせした仲です。また、東京の経済を栄えさせたのは渋沢栄一で大阪の経済を栄えさせたのは五代友厚です。それ故に西の五代なんです。ですので、2人の接点についても話しますね。

まず渋沢栄一は500社もの会社を設立したり、東京商法会議所(今でいう東京商工会議所)の初代会頭も務めました。一方で、五代友厚は大阪商法会議所(今でいう大阪商工会議所)初代会頭でした。このように、東京と大阪で活躍していたのは事実です。また、二人とも同時期にフランスやイギリスに渡って現地を巡り、日本の産業の近代化に力を入れました。

 

まとめ

五代友厚を青天を衝けで見た時いい印象はありませんでした。なぜなら、富国強兵を推奨していたからです。どういうことかと言いますと江戸時代の教育は良かったんですよ。識字率も高かったですしね。それは寺子屋の存在があったからです。ですが、明治になり富国強兵になってからはそうった良い文化は消えていきました。だから、あーこいつと思いましたね。要は何度も言ってますが明治維新から日本は乗っ取られてるんですよ。でも、いい印象にすり替えられてるだけです。ですので、それを踏まえつつ美化された姿を見ていくことをおすすめします。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう