承久の乱の人!後鳥羽上皇とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!鎌倉殿終盤になりましたね。実朝からしたら義盛と悲しい別れをしたからこそ、北条のことが嫌になってはいます。義時の言うことなんて聞かないみたいな感じにもなっていますからね?そんな時に登場するのが後鳥羽上皇です。きっとこのムードを見て権力を得ようと後鳥羽上皇は考えたんでしょうね?ですが、その計画は承久の乱負けたので上手くはいきません。島流しです。このように、負けたものの北条と戦った公家であるのは事実です。では、彼はどんな人だったのか?今から話したいと思います!

後鳥羽上皇のプロフィール

名前 後鳥羽上皇

生年月日 1180年8月6日

出身地 京都

死亡年月日 1239年3月28日(享年58才)

破天荒で波乱万丈な人生でした。ですが、多才だったため仕事はできでいました。それもあって北条との対立をしたのかなと思われます。

後鳥羽上皇の人生

以上が後鳥羽上皇のプロフィールです。では彼はどんな人生だったのか?今から話したいと思います!

1.よく分からない中の即位

何がよく分からないのか?それは天皇が2人いる状況だったことです。意味が分からないですよね?今から詳しく話しますね。後鳥羽上皇が生まれたのは源平合戦の頃です。この時点で壮絶な人生になると言っても過言ではありません。それで、後鳥羽上皇は1184年に天皇として即位します。わずか4歳です。この歳で即位なんて前代未聞です。

何でそんなことをしたのか?それは後鳥羽上皇と同い年の安徳天皇が平清盛が強権により即位させた天皇がいたからです。朝廷からしたら安徳天皇の即位は嫌なものです。その当時、天皇指名権は天皇家の家長にあるっていうのが一般常識でした。となると後鳥羽上皇が指名します。それなのに勝手に清盛が指名しました。それに対抗するために後鳥羽上皇が選ばれました。

2.三種の神器とコンプレックス

めちゃくちゃ様はまだまだあります。実は即位するには三種の神器が必要なんです。ですが、三種の神器の全てを四国にいる平家軍が持っていてしまってしまいました。じゃあ、どうするのって?後で取り返せばいいと言って後鳥羽上皇を即位させました。もう良い加減ですね。

でも、結果としては全ては取り返せませんでした。理由としては壇ノ浦の戦いで安徳天皇と共に海に沈んでしまったからです。下関で捜索はしたものの草薙剣だけはどうしても見つかりませんでした。だから、不完全なまま即位しました。それは後鳥羽天皇の生涯のコンプレックスになりました。きっとみんなから嫌な噂が言われていたんだと思います。

3.多才は青年だった

色々あったものの、後鳥羽天皇は多芸多才でした。まず、和歌を好んでいました。あの有名な「新古今和歌集」を編纂しました。また、刀剣を好んでていたことから自ら刀鍛冶を行っていました。他にも蹴鞠や管楽、囲碁などのゲームも好むだけでなく、相撲・水泳・競馬、狩猟もやるなどとにかくアクティブでした。武士かよと思いますが。

4.院政で権力を持つ

1198年に後鳥羽天皇は土御門天皇に上位しトップとなります。その当時は政治の実権を握っていたのは後鳥羽天皇ではなく、土御門通親という人物でした。ですが、1202年に土御門通親が亡くなると後鳥羽上皇は権力を持ち出します。まず、自分を抑え付けていた土御門派の人物を一掃し院政をスタートさせます。ちなみに、後鳥羽上皇の政治理念は「朝廷主導の政治を復活させる!」というものでした。だから、鎌倉殿でも北条が憎いみたいな感じがありますよね。

5.承久の乱で負ける

とりあえず自分が権力を得るために実朝に近づきます。実朝も北条に乗っ取られたくないという気持ちがあったからこそ乗っかったと思います。ただ、そんな時、実朝が自分の甥っ子に暗殺されてしまいます。その事件がきっかけに幕府と朝廷の間は険悪になりました。そこで、後鳥羽上皇は幕府を打倒しようという決起を呼びかけます。ですが、政子の演説の方が影響が大きかったので、鎌倉側の方が優勢になりました。それ故に大軍で攻め入られ、後鳥羽上皇はボロ負けです。隠岐の島に流されました。ただ、それだけではなく天皇や朝廷側の領地は大きくけずられました。

 

6.その後の後鳥羽上皇

その後もアクティブだったそうです。なんと刀剣作りをしていました。自分が宝剣なしで即位したから作ろうという思いがあったのかもしれません。その際に全国から腕利きの職人を呼び寄せたそうです。また自分の力でも作りました。ただ、自分の銘を入れませんでした。その代わりに、あるデザインを彫り込みます。それは十六葉の菊紋こと菊のご紋です。このデザインは今でも天皇家の家紋として使われ続けています。そう考えると後鳥羽上皇は歴史に残ることをしたのは間違いないです。そして、1239年に後鳥羽上皇は満58才で京に帰ることができないまま隠岐の島でいなくなります。

後鳥羽上皇のおもしろエピソード

このように後鳥羽上皇は波乱万丈な人生を歩んでいました。だからこそ、面白いエピソードもあります。ですので、今から話しますね!とはいえども、笑い事ではないです。どれもクズ様が現れています。

1.ギャンブル中毒?

後鳥羽上皇の日記のうち1215年5月15日、19日、11月11日に日記の中に自ら出していた法律、銭禁令に反して銭を賭けて勝ったことを「見苦しい」とか言っているのにもかかわらず連歌で賭け事をしたことが書かれています。これを見ても賭け事が大好きだったのは事実かと思われます。今の時代にそんなことが暴露されたら大スクープになってしまいますね。また、後鳥羽上皇の治世では売官行為が横行していたという記録があります。ちなみに、後鳥羽上皇は異常なくらいに熊野行幸に赴いていました。そして、その途中で和歌や白拍子、相撲など様々な催しを楽しんだとされています。今で言うならば政治に使われるはずのお金が遊びに使われているととうことです。

2.キレやすい性格

後鳥羽上皇は非常にキレやすく、気まぐれな性格だったそうです。なんか怒らせたやつはすぐに失脚してしまったなんて話もあります。おそらく、当時の官僚たちは怒らせないようにしないといけないというプレッシャーはあったと思います。公家でそんな奴がいるなんて驚きですけどね?

3.責任をなすりつける

承久の乱の時の話です。敗北を知った部下達は後鳥羽上皇の元に集まってきました。ですが、後鳥羽上皇は門を開けません。

なぜならば、そこに部下達を入れたら自分が共犯者だと思われるからです。要するに、部下達が起こしたってことにしたかったということです。もちろん、部下達は絶望しますよ?ある人は死を覚悟で特攻し、ある人は捕らえられ刑に処されたと言われています。ワンマンにも程があります。

まとめ

頭は良かったのは事実だと思います。そうじゃなかったらそこまで多趣味になれるわけないですしね?あそこまでアクティブなのは武士なのかと疑っちゃいます←。ですが、性格に関しては癖があります。特にこのような性格は無能な上司になりかねないです。いや、実際に無能な上司でしたしね。承久の乱の時に関しては衝撃でしたね。責任を取りたくないってなんなんだよと。誰が北条倒そうと言い出したのか?まあ、島流しになったから変わりもないですからね?このような姿見てるとプライド高いのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう