忍者ハットリくん!服部半蔵とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!「忍者ハットリくん」ってアニメを知っていますか?藤子不二雄Aの作品の1つです。古いアニメなので若い人には知られていないと思いますけどね。おじさん・おばさん世代ならば知っているはずです。なんでそんな話をしているのか?実は「忍者ハットリくん」ってあの服部半蔵から来ているんです(ハットリくんは服部半蔵の子孫という設定です)。服部半蔵(本名は服部正成)とは家康に仕えていた忍者です。だから、アニメのタイトルが「忍者ハットリくん」なんです。ただ、忍者といってもただの忍者でもではないです。服部半蔵は武将としても活躍していたそうです。なのに、そこらへんは有名ではないんです。ですので、この記事にて話したいと思います!

服部半蔵のプロフィール

まずは服部半蔵とはどういう人かを知るためにもプロフィールから見ていきたいと思います!

 

 

名前 服部半蔵

本名は服部正成です。半蔵とは服部家の当主が名乗る名前です。服部家は12代まで続きました(正成は2代目で服部家の中で一番有名です)。

生年月日 1542年

出身地 三河国

没年 1597年1月2日(享年55歳)

備考

忍者とか言いながら武将です。忍者であり武将でもあるみたいな感じに思っておけばいいです(実際はお父さんの代だけが忍者とは言われてますが)。そこらへんは曖昧ですが無類の強さから「鬼半蔵」と呼ばれていたそうです。本多忠勝とどっちが強いのか気になります。ちなみに先祖は伊賀越えこと伊賀国の人間だそうです。

服部半蔵の人生

以上が服部半蔵のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.服部半蔵産まれる

服部半蔵は1542年に三河国にて、初代服部半蔵こと保長の五男または六男として生まれています。え?長男じゃないのに当主ってどういうことって?そこらへんの詳細は分かりませんが彼は幼少から屈強で特別な素質のある子とみなされていたのは明らかだとは言われています。具体例としては出家を拒んで家を出ると言い出ていったそうです。もちろん親にも頼っていません。何者だよ。ただ、当時の服部家の立場は弱かったため初めは室町幕府の12代将軍足利義晴に仕え、その後に三河の大名だった松平清康(徳川家康の祖父)に仕えたそうです。

2.初陣は16歳

服部半蔵の初陣は彼が16歳のころです。1557年の三河宇土城の夜襲だったそうです。まあ、別に16歳なんて戦国時代においては珍しいことではないです。ですが、服部がすごかったのは家康が目を見張るようなところで活躍をしたことです。それもあって、夜襲が成功した後に家康の持ち槍をもらったそうですさらに盃も交わしたといいます。その出来事から家康と信頼関係が結ばれたそうです。

3.徳川十六神将の1人となる

20代後半~30代にかけて服部半蔵は活躍しました。遠江・掛川城の戦い、姉川の戦い、三方ヶ原戦いなどで活躍しました。その功績から徳川家でも特に秀でた武将を意味する「徳川十六神将」の名を得たそうです。

なかでもすごかったのが三方ヶ原の戦いです。この戦いでは徳川軍は負けていました。それなのに家康から新たに槍を2本贈られ、150人の部下を預けられています。え?負けているのにと思いますよね?実は武田軍に敗戦を喫した徳川軍は、そのとき浜松城へ逃げました。ですが、武田軍は追いかけます。そこで、服部半蔵は正成はひとり城外へと飛び出し返り討ちしました。それだけではないです。なんと討ち取った首を持って城内に戻ってきたそうです。

4.伊賀越えで家康と救う

服部半蔵の地位が上がったのは1582年に起きた伊賀越えです。信長が本能寺の変で討たれた際、家康は大坂の堺を訪れていました。その場にいては危険です。そこで、服部半蔵は父が元伊賀忍者であるため伊賀・甲賀の忍者に頼り、協力を得ることができました。そして、伊賀を越えて三河へ帰るルートを確保し家康のピンチを救います。この功績からその忍者たちはそのまま家康の配下ななるたけでなく、忍者部隊の頭領を服部半蔵が担うことになるのです。

5.天正壬午の乱

1582年に旧武田領をめぐり、徳川、北条、上杉で争うことになりました。それが天正壬午の乱です。服部半蔵は家康に従い甲斐へ出陣します。その時時服部半蔵は伊賀衆を率いて、甲斐・駿河を結ぶ道を監視したり、津金衆の協力を得てたりして周辺の地を守っていました。また、次々と城を攻め落としたことで家康にも賞賛されました。

6.鉄砲奉行として活躍

家康と秀吉との戦いこと小牧・長久手の戦いでは伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退したそうです。また、小田原征伐でも大組百人の組頭として根来衆50人を率いて鉄砲奉行として戦ったそうです。その際に服部半蔵は十八町口にて奮戦し首を十八級挙げたと言われています。18級って何者なんだよって思いますが…。この功績から服部半蔵は与力30騎、伊賀同心200人を付けられるだけでなく8千石を拝領したそうです。

7.伊賀同心との確執

伊賀同心を統率する立場になった服部半蔵ですがある問題がありました。それは伊賀衆は徳川の家臣であって服部半蔵の家臣ではないという問題です。なんでそんなことをいってるのか?どうやら伊賀衆からしたら服部家は自分達よりもステータスが下なのになんで服部半蔵の下で働かないといけないんだみたいな不満はあったそうです。それで、伊賀衆は「伊賀同心二百人組」として組織化され江戸城周辺の守備にあたったものの、服部半蔵の死後も伊賀同心二百人組と服部家との確執は続いたそうです。

※それ以外にも伊賀衆関係の人たちは諜報活動などを担う隠密として働くようになったそうです。

8.最期

服部半蔵は1590年ごろには戦場を離れて僧侶になったそうです。関ヶ原には参加しなかった感じですね。そして、1597年に55歳にしてその生涯を終えます。その遺骨は現在の新宿区にある西念寺にて葬られました。麹町方面ですね。また、服部半蔵や家臣たちが江戸城へと通った門は現在も半蔵門として残されています。この話は後ほど話しますね!

服部半蔵と半蔵門

東京には半蔵門線や半蔵門駅というものがいるのはご存知ですよね?実はこれ服部半蔵が由来なんです。実は服部半蔵は江戸城西門の前に屋敷を構えていました。また、江戸城の西門の警護を任されましたそうです。なんで西門なのか?それは何かあったときにに甲州街道を通り甲斐に逃げるためのルートだからです。きっと伊賀越えの功績があったから任されたのかと思われます。ちなみに、現在の江戸城は皇居となっているため半蔵門を間近に見ることはできないようです。ですが、遠目には見ることができます!

まとめ

感想としては2つですね。1つ目は徳川の中で最強な武将といえば本多忠勝と思っていました。彼もなかなかですからね。ですが、服部半蔵も負けてられないというところがすごいなと思いました。私的にはどっちが強いのかみたいな話とかあったら見てみたいですね。まあ、きっと勝敗が付くわけないくらいお互い強いと思いますがwwwwwwwww。2つ目は伊賀越えの提案者が服部半蔵だったとは思ってもなかったですwwwwwwww。あれは爆笑ものですからね。「真田丸」でも家康は発狂していましたし。でも、そのおかげで生きれたから服部半蔵の成果は凄いってことではあると思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう