徳川家の嫌われ家臣?本多正信とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康には心強い家臣がいました。そんなのたくさんいるんだろって?それはそうです。ただ、その中にも知恵を与えてくれる人がいました。その名前は本多正信です。性格としては頭が良くて腹黒い系の人ですね(家康の側室こと阿茶局と似ていますね)。「真田丸」でもそのような意見はありました。まあ、その性格だから家康に助言ができたんですよね。一見いいイメージはないですが彼の助言があったから家康は成長したと言っても過言ではありません。流石の家康。人の見る目はピカイチだと思っています!では一体どんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

※本多忠勝と血縁関係はないです。三河には本多という苗字が多かったそうです。

本多正信のプロフィール

まずは本多正信のことを知るためにもプロフィールから見ていきましょう!

名前 本多正信

通称 弥八郎

生年月日 1538年

出身地 三河国

没年 1616年7月20日(享年79歳)

備考

家康の側近です。いつも隣には本多正信がいるって感じです。武功よりも地力で成果を出した人です。

本多正信の人生

以上が本多正信のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んできたのか?今から話したいと思います!

1.本多正信生まれる

本多正信は1538年に三河松平家の家臣本多俊正の次男として三河国で生まれました。母は誰かも分かっていません、また、どんな幼少期かも分かっていません。ただ、父祖以来代々松平家の家臣で家康に仕えていたということは明確ではあります。

2.桶狭間の戦いで負傷

1560年に起きた桶狭間の戦いでは家康と共に今川軍として戦いました(今川についておきながら信長に情報は流していたんですけどね)。その際に本多正信にとってあるピンチが起きます。それは丸根砦を攻めるときに膝に傷を負ってしまいました。そのせいでずっと足を引きずるようになったと言われています。

3.三河一向一揆では敵対?

三河一向一揆が起こると一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対しました。実は一向宗派だったそうです。結果としては家康が鎮圧したため本多正信は加賀国に移住したそうです。その際に本多正信は一向一揆の将として迎えたため信長と戦ったそうです。ですが、大久保忠世のとりなしにより徳川に帰参することになりました。その時には家康への信頼は取り戻していたそうです。

4.天正壬午の乱で活躍

天正壬午の乱とは旧武田領をめぐって北条、上杉と争った戦いです。結果は徳川が制しました。その後、本多正信は奉行に任じらる」ようになり、次第に家康の本陣に加わって側近の謀臣として力を振るうようになりました。また、甲斐・信濃の統治を担当したそうです。それ以降、本多正信は「君臣の間、相遇ふこと水魚の如し」(君臣の間を魚のように行き来し、人間関係の緩和に務めていた)などと言われます。また、家康は正信の事を友と呼ぶ仲になっていたそうです。

5.大名となる

秀吉が天下を取ってから家康は関東に移動を命じられました。それまでは関東は田舎だったそうです。東京が都会になったのは家康のおかげです。まあ、そんなことはさておき、本多正信は相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となりました。また、佐渡守に叙位・任官されました。

6.関ヶ原で秀忠をサポート

1600年の関ケ原の戦いでは本多正信は秀忠の軍勢をサポートしました。ただ、上手くはいきませんでした。なんと関ケ原へ向かう途中上田城で真田正幸との戦いに苦戦てしまいました。その際に本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように言ったそうです。ですが、受け入れてもらえなかったと言われています。また、それだけでなく川の増水の影響で遅れてしまいました。家康は秀忠が遅れたことに相当怒っていたそうです。

7.政のメインメンバーとして活躍する

関ケ原で徳川が勝ってから本多正信は家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉に尽力しました。本願寺を分裂させ勢力を弱めさせるようなことをしていたそうです。そして、家康が1603年に江戸幕府を開くと側近として活躍するようになります。また、秀忠が将軍になってからは老中になったそうです。ただ、1616年4月に家康がいなくなると嫡男の正純に仕事を引き継ぎ、隠居しました。そして、1616年6月(新暦だと7月20日)にいなくなりました。

家康との関係性

家康と本多正信関係は「友」と呼んだと言われているそうです。なんと以心伝心できるくらいの関係です。前田利家がいなくなった後に三成が武断派七将に襲撃された話は有名ですよね?「真田丸」でもそのシーンはありました。その際に三成は家康に頼りました。その状況を見た本多正信は深夜に家康のところにを訪れて三成をどうするのかと質問しました。すると家康は「今、考えておる所よ」とだけ述べたそうです。側近レベルなのにそれだけでいいのと思いますよね?もっと色々話すものなのではと。違うんです!もう本多正信は家康が何を考えているのか理解しているからそれだけでいいんです。なかなかすごいですね。

本多正信が嫌われている理由

このように、家康には信頼を得ていた人間です。ですが、周りからは嫌われていました。ではなぜなのか?

1.贔屓されているから

本多正信の家は父祖以来の家康の家系に仕えている家です。また、家康より5歳年上で子供の時から兄弟のように育ってきたとうかがえます。それもあって、家康に何を言っても何をしても許されてしまうこともあります。三河一向一揆で一時は敵になっても帰参できてしまう件がまさにそうですね。本来ならば許してもらえないようなことをしているわけですから。それ故に本多正信がだんだんと力を振るうようになってくると命を張って家康を守ってきた家臣達が本多正信のことを嫌うようになったそうです。

2.武功で成り上がったわけではないから

本多正信はそろばん勘定を得意としていました。それ故に家康には知能面で買われたんです。ただ、戦国時代は戦の時代です。そのため、武力で成り上がってきた徳川四天王たちとは相性が合わなかったことがあったようです。

 

まとめ

本多正信に関しては前々から知っていますが家康の相棒ってイメージがありました。特に天下を取るような時になってからはニコイチってイメージがありましたね。ずっと戦略を練っている感じがして。それくらい家康が信頼していたんでしょうね。幼なじみみたいな感じですし。きっと家康からしても心強かったと思います。だからこそ、本多正信は家康を成長させた1人だと思っています!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

りかちゅう