今川氏真の妻!早川殿とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!今川義元の息子は今川氏真であることはご存知ですよね?とは言えども、マイナーですけどね。氏真もマイナーだからこそマイナーになってしなうのはしょうがないです。ただ、「どうする家康」登場します。その際にキーパーソンとなる人でもあります。なんと言えばいいのか彼女の言動は氏真に影響を与える存在であると言えばいいですかね。まあ、とにかく何もない人ではないです。むしろ、氏真にとっては必要な存在だったと思われます。氏真は今川義元がいなくなってから大変でしたからね。領地はへるさやら暗殺されそうにやるやら。それなのに、早川殿は氏真と一緒にいました。一体早川殿はなにものなのか?この記事にて話したいと思います!

早川殿のプロフィール

まずは早川殿とはどんな人かを知るためにも簡単なプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 早川殿

実名は不明です。一応、法名から蔵春院という名前もあるそうです。

生年月日 不明

出身地 相模国

没年 1613年4月4日

備考

今川氏真の妻です。戦国北条の女です。後ほど話しますが政略結婚の関係ではあるものの子供には恵まれました。また、早川殿の方が年上です。姉さん女房ってことですね。また、家の都合で決裂しても離縁することなく、最期まで添い遂げました。そのため。戦国のおしどり夫婦とも言われています。

 

早川殿の人生

以上が早川殿のプロフィールです。姉さん女房だったんですね。では早川殿はどんな人生を歩んでいたのか?

1.早川殿生まれる

早川殿は北条氏康の娘として相模の国に生まれました。本名や生まれた年は記録には残っていません。ただ、北条家の系図では嫡男の北条氏政よりも早川殿の名が先に記されています。となると、北条氏政よりも年上かと思われます。ちなみに、北条氏政は1538年生まれです。とにかく、1538年よりも前にうまれたのかなと思えばいいです。

2.今川氏真に嫁ぐ

1554年に早川殿は今川氏真が17歳のときに姉女房として嫁入りします。これは政略結婚です。なんで政略結婚をしたのかを話しますね。

1537年に今川義元が北条家と敵対関係にあった武田信玄と「駿甲同盟」を結びました。そのため、今川と北条の関係が悪化し1537年に北条家が今川領に攻めたことから「河東の乱」になりました。戦いは10年間も続きました。ただ、武田家は北部、北条家は東部、今川家は西部に向けて勢力を拡大したいのが本心です。そこで今川義元は、武田と北条と同盟関係を結ぶという形で関係の修復しようとしました。これが「甲相駿三国同盟」です。その際に政略結婚として1552年に今川家の娘嶺松院が武田家へ、1553年に武田家の娘・黄梅院が北条家へ、1554年に北条家の娘・早川殿が今川家へ嫁ぎました。

3.今川義元の死と氏真の苦悩

1560年「桶狭間の戦い」で今川義元は信長に討たれました。この話の詳細はこちらの記事を見てください!

信長の転機!桶狭間の戦いとは何か?

信長は優勢になる一方で今川家は混乱状態に陥ります。早川殿の旦那こと氏真は今川義元ほど武人の器量はないため家臣が不満が爆発し始めます。特に家康との関係に苦労しました。家康は桶狭間を機に今川を裏切り、信長と清洲同盟を組みました。氏真は家康と戦うものの、敗北しました。もちろんめげないで離反した国衆を誅殺するなど悪あがきはしましたが勢力は強くはなりません。

4.今川家の滅亡

今川義元が負けてから衰退する今川家。これを好機と考えた武田信玄は、1568年家康と共謀して駿河国へ侵攻しました。この結果、今川氏真は駿河国をも明け渡し、遠江国の「掛川城」へ逃亡しました。氏真は早川殿の乗物すら用意することができませんでした。ですので、早川殿は徒歩で移動しなければならなかったのです。これを見た北条氏康は氏真の支援に乗り出しますが、1569年、家康により掛川城も開城させられたことで今川家は滅亡します。

5.放浪生活をする

早川殿の父こと北条氏康を頼り氏真と早川殿は小田原の早川の屋敷に移り住みました。その経緯から早川殿と呼ばれるようになりました。一旦は平和になりましたが1571年に北条氏康がいなくなりました。ここからが問題です。後を継いだ早川殿の弟こと北条氏政は武田家と和睦し氏真の殺害を計画します。早川殿と氏真は四面楚歌です。弟に裏切られるのは辛いですね。そこで、氏真は家康を頼り浜松へ身を寄せることにしました。早川殿はそれでも離縁せず共に浜松へ移り住みます。浜松城では平和な暮らしをしていたそうです。ただ、武田が氏真を暗殺しようとしていたためまた逃亡したという逸話もあります。

6.江戸に安住する

浜松を離れたあとも氏真は家康に仕えました。家康は氏真に対して感謝しているから家臣として受け入れることができるのかもですね。そのため各地を転々とする生活になりました。愛知や近江、京都など色々なところを巡りました。そして、1612年には江戸に移住したそうです。その際に早川殿は、1613年に江戸にていなくなりました。また、氏真は1615年にいなくなりました。78歳でした。

同盟結婚で離縁せずに続いた夫婦

「甲相駿三国同盟」にて婚姻関係を結んだ嶺松院と武田義信カップルと黄梅院と北条氏政カップルは同盟破棄と同時に離縁しました。それなのにもかかわらず、早川殿は離縁せずウザザナを支え続けたことから「愛に生きた人」とも言われています。

たくさんの子供に恵まれた

色々あった夫婦ですが子供には恵まれていたそうです。どうやら家康を頼り、浜松周辺で暮らしながら4男1女をもうけたそうです。このうち長男の今川範以はどの大名家にも仕官しなかったものの、父と共に京都の公家衆と仲が良かった事が伝わっています。また、今川範以の嫡男の今川直房は徳川家に高家として仕え、明治時代に断絶するまでその血を後世に伝えました。また氏真の次男の品川高久は秀忠の家臣になっています。

※はじめの子供は長女ではあります。その子は吉良義定の正室になったそうです。吉良って苗字は忠臣蔵で登場しますね。

まとめ

同盟が無しになっても婚姻関係を続けるってすごいですね。きっと氏真には魅力があったんでしょうね。そうでなければ離縁しているわけですし。あと、早川殿のお父さんが離縁させないでいてくれたことは大きいのかなと思われます。本来ならば離縁させられるなんてことあってもおかしくないですからね。このように、色々あったもののおしどり夫婦でいたのはすごいと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう