信長の転機!桶狭間の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!織田家は昔は小国でした。意外かもしれませんが本当です。そこらへんは調べれば分かります。ですが、信長がある戦いに勝ったことで軌道に乗ることができました。その戦いは桶狭間の戦いです。信長は兵力が少なかったのにもかかわらず信長が勝つことができました。夜襲で勝利したって話が有名ですね。それから色々な戦いに挑んで勢力をつけることが出来ました。さすがですね。ただ、桶狭間の戦いには裏があるんです。今川方に有力なスパイがいることや少ない兵力の強さなど色々あります。ですので、この記事にて色々話したいと思います!

桶狭間の戦いとは何か?

桶狭間の戦いのことをよく知らない人もいるのかなと思われます。ですので、まずはその話からしたいと思います!桶狭間の戦いとは1560年に信長と今川義元の間で行われた戦いです。尾張国を治めていた信長の方が劣勢です。それなのに、駿河、遠江、三河の3国を治めていた有力な戦国大名である今川義元を破ったため当時の大名や武将たちに影響を与えました。信長の戦上手がこの戦いでよって知らしめられたと言っても過言ではありません。

桶狭間の戦いが起きた理由

以上が桶狭間の戦いについての概要です。にしてもなんで桶狭間の戦いは勃発したんだよと思いますよね?ですので、その話をしたいと思います!

1.長い因縁

実を言うと今川と織田はずっと睨み合っていた関係でした。先ほども述べたように信長の支配地は尾張です。一方で今川義元の支配地は遠江と駿河です。それでこの2人はある領地が欲しくて戦っていました。それは三河です。この争いは信長のお父さんこと信秀の時から行われていました。それで信秀が三河に攻め込むと、三河の領主こと松平広忠は今川義元に助けを求めます。その際に今川義元は家康を人質にするという条件で取引を成立させます。ここまでが1540年代の話になります。

2.信長が再び今川を攻める

1551年に信長が家督を継ぎました。しばらくは、織田一族の内乱にで今川どころではありませんでした。そこら辺は「麒麟がくる」を見ていたら分かるはずです。まあ、あの内乱の一部茶番です。この話は割愛します。一方の今川義元は着実に三河を支配下に収めます。三河の安定統治が達成された1560年に今川義元は尾張を次のターゲットに進軍を開始します。しかも今川義元は戦国時代の北条と武田と同盟を組んでいます。これは信長にとってはピンチです。

戦いの経緯

要するに、元からの因縁があったから桶狭間の戦いが起きたと言っても過言ではありません。ではその時の戦いはどのようなものだったのか?

1.今川が有利な戦

1560年5月12日に今川義元は2万5千もの大軍を率いて尾張を目指し出発しました。その5日後には尾張に最も近い今川の最前線の沓掛城へと入城しました。一方、信長は清洲城に籠城するか、出撃するかで論争していました。なぜなら、信長の擁する兵力はたった2千5百ほどだったからです。10倍の敵を前に勝負を挑むなど無謀です。この場合、籠城するのが当然とされていました。ですが、信長は熱田神宮で戦勝祈願をし、本体と合流すると今川軍と対決すべく進軍を開始しました。大衆とは違うことをするのが信長です。

2.豪雨によって予定が狂う

一旦は織田に囲まれた味方の大高城を救援したことで今川義元が勝利しました。そして、本隊を大高城へ移動させるために動き出しました。その途中休憩を取った場所が、桶狭間だったのです。ですが、その判断のせいで今川義元は負けます。信長は一旦負けたものの、中嶋砦に入った際に桶狭間に向かって今川義元の本隊が行軍していることを知ります。信長はすぐさま軍をそちらに向けたのです。そして、午後1時過ぎに突然の豪雨が桶狭間一帯を襲いました。そのせいで周りもろくに見えず音も聞こえずの状態だったそうです。このタイミングで信長は今川義元に接近しました。気づかれないからこそです。そして、空が晴れた途端、信長は「突撃」と言いました。

3.今川義元討たれる!

いきなり目の前に現れた織田の軍勢に今川義元は大混乱に陥ります。今川義元は輿を捨てて騎馬で逃げ出しました。とは言えども信長の追撃は厳しかったです。なんと300騎がついには50騎にまで減ってしまいました。そこで、服部一忠という兵が今川義元に斬りかかります。お互い弓取りが強かったので接戦でした。そんな時、毛利良勝が飛びつきます。それによって今川義元は討たれました。

信長の勝因

このようにして信長は勝ちました。一見豪雨のおかげと思うかもしれません。ですが、それ以外の要因もあります。ですので、その話もしたいと思います!

1.家康が信長のスパイだった?

家康は今川方でした。ですが、スパイでもありました。え?信長と家康っていつから仲良いのって?実は家康が6歳の頃、色々あって織田家の人質でした。その時から仲良かったんです。なんかフィーリングがあったそうです。それで、信長はその時に家康に剣術を教えたそうです。信頼してないとできないことです。それ故に信長にしれっと今川の情報を教えていました。一見敵同士かと思いきや実はグルだったんです。それもあって「麒麟がくる」でも家康は動かなかったのかもしれませんね。あのボイコットシーンが懐かしいです。

2.信長側はプロな兵しかいなかった

その当時の戦国武将は農民にまで戦に駆り出していました。となると、指示を出すのはプロではありますが本業は武士ではないです。ですので、上手く動かない人だっています。一方で信長の勢力はみんなプロです。信長は農民を戦場に行かせることが反対でした。関係ない人を巻き込みたくなかったそうです。ですので、信長は自分で志願した人しか連れていきませんでした。だから、元から強かったんです。

まとめ

信長という人物は世の中を平和にしようという考えがありました。彼は色々あって縄文時代のことを知っていたからです。その色々は信じがたい話なので割愛します。ただ、今川義元からしたら自分の権力取られるのは嫌なものです。そこで信長を潰したいという思いから戦いが勃発しました。ただ、今川義元も家康の正体を知らなかったそうですね。それによって信長が逆転勝利をしました。そう考えると桶狭間の戦いは信長と家康のコラボによって勝てたものだと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう