どうする家康!徳川家康とはどんな人

どうも、りかちゅうです!今日から「どうする家康」がスタートしましたね。私はまだ鎌倉殿のロスが残っていますが「どうする家康」に期待もあります。最後まで見届けたいです(つまらなくなって見たフリしなければいいですが)。前置きはここまでにして今回の主人公は家康です。彼は江戸時代という平和な時代を作った偉大な人物です(この平和は幕末で壊されました)。教科書では徳川が良いようにしたみたいな感じに書いていますが違います。教科書の内容なんて編纂されているものです。証拠は色々ありますが長くなるので割愛いたします。分かる人には分かることでしょう。では家康は一体どんな人生を歩んだのか?この記事にて話したいと思います!

家康のプロフィール

家康はほとんどの人が知っていると思います!それくらい有名ですからね。ただ、おさらいとして一応家康のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 徳川家康

生年月日 1543131

出身地 三河国(今の愛知県)

幼名 竹千代

徳川家の嫡男は竹千代という幼名が使われていたそうです。

没年 161661(享年73)

鯛の天ぷらが当たって死んだという話が有名です。

備考

ただの天下人ではないです。縄文時代に近い時代を作り上げた人物の1人です。これは信長、秀吉、家康の3人の計画でした。要するに家康が仕上げ係ということです。これに関してはいつか話したいと思います!

家康の人生

以上が家康のプロフィールです。では彼はどんな人生だったのか?

1.人質人生

1543131日に三河国大名・松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生しました。幼名は竹千代です。松平家は先祖をずっと辿っていけば源氏へと繋がる由緒ある家系だったそうです。ちなみに20歳になるまでは松平でした。徳川を名乗るのは独立してからです。

このように、家康の家柄はいいものでした。ですが、生まれた時は違いました。なんと今川と織田の板挟み状態でした。それ故に当主の広忠は両者の抗争に巻き込まれないように今川家に援護を頼んでいました。ですが、事は上手くいきませんでした。家康が3歳のころ、母の於大の実家である水野家が織田家と同盟を結びました。もちろん於大は離縁です。そして家康は松平家を守ってもらう引き換えに家康は今川家の人質となります。その後は今川の家臣の裏切りのせいで織田家の人質になったり、また今川の元に囚われたりと振り回されていました。子供の時からこんな状態とは大変でしたね。

2.今川から独立し信長と同盟を組む

家康に転機が現れました。それは1560年の桶狭間の戦いです。これで今川義元は負けたので家康は解放されました。実はこれには裏話があります。実は家康と信長は仲が良かったんです。人質時代の時に仲良くなったとか。その当時信長は人質の家康に武道を教えたくらいですからね。ですので、家康は桶狭間では今川方にいたのに信長に情報を流していました。「麒麟がくる」でも家康が今川にボイコットを起こしたのはそういうことです。まあ、こんな形で信長が桶狭間に勝ったということです。

それからは信長と正式に清洲同盟を組みました。それから武田などが滅ぶなど勢いがついたことから39歳には駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の領地を得ることができました。

3.秀吉の傘下になり関東を統治

1582年に信長は本能寺の変でいなくなりました。実際は死んだ振りです。庶民の気持ちが分かる農民出身の秀吉に引き継ぎたいから死んだ振りをしました。となると、信長と秀吉も仲間同士です。その後の流れとしては家康と秀吉は長久手の戦いで対立します。結果は和睦で2年後の1586年に家康が大坂城に出向き秀吉への忠誠を誓っていました。もちろんこれもパフォーマンスです。農民出身の秀吉に頭を下げたくない武士を大人しくさせるためです。

それから時が経ち1590年に戦国の北条家が滅び家康がは自分が所有していた5ヵ国を明け渡し北条家の旧領を含む関東八州を任されることになりました。領土はなんと119万石から250万石までに増えました。その当時の関東はど田舎でした。ですので、家康が1から開拓しました。家康がいなかったら今の東京はないと言っても過言ではありません。

4.関ヶ原と天下統一

1598年になると秀吉が病没しました。その際に秀吉は息子の秀頼に継がせようとしました。ですが、これは信長との約束違反です。信長は世襲を嫌がっていましたからね。なぜなら、世襲制にすると子供が自分が一番という感覚を持ってしまうからです。これでは平和な世界にはなりません。そこで、作戦変更です。自分が引き継ぐために関ヶ原の戦いをしました。ただ、これも実は家康が勝つようになっていました。天海和尚が家康につくようにお願いしました。ちなみに天海和尚の正体は光秀です。ただ、淀殿にそそのかされた三成や毛利は家康と対立しました。要するに、色々な協力があって家康は関ヶ原で勝ち天下を取りました。

5.大阪の陣

家康にとってのラストバトルです。関ヶ原で家康は勝てたものの、豊臣家は残っていました。これではまた戦乱の世になってもおかしくないです。淀殿がそういう性格だからこそ厄介なんですけどね。そこで、豊臣を滅ぼすことにしました。これが大阪の陣です。私の好きな幸村さんが輝いた戦です。負けた側なのに日本一の兵と言われるなんですごいことです。まあ、この話はさて置き、本当は家康だってこのような戦をしたくはなかったです。秀吉の縁者を殺すことになりますからね。ですが、鬼となって滅ぼすことを決意しました。このようにして家康は平和な時代作りの基礎を固め終わってからいなくなりました。

江戸時代は編纂されていた

先ほども述べたように江戸時代って徳川中心で農民は苦労していたというイメージはあると思います。ですが、これは編纂された話です。平和な時代でした。完全な世襲制にならないように対策をしていました。ここは話が長くなるので割愛します。また庶民に教育をさせるために寺子屋を設置しました。おかげで識字率は高く就職率も高かったです。それの何が平和って?庶民に文字を読んでいいということは徳川に下心がないという証拠です。支配したいならば庶民を馬鹿にさせます。それ以外の要素もありますが割愛させていただきます。

家康の印象

家康は女の見る目があるなと思っていました。家康が一番寵愛した女性は阿茶局です。彼女ななかなかのしごできです。容姿端麗で武道ができるだけではないんです。戦へのアドバイスもできる女です。実際に戦場に同行したこともあるそうです。また、家康の死後は政にも携わっていたそうです。このように、天下人の妻(正式には側室ですが)としてパーフェクトです。彼女がいたからここまで来れたといっても過言ではないです。そんな人を選べるって相当見る目がないと無理だと思いますよ。

まとめ

家康の本当の姿はこんな感じです。彼は別に徳川の独裁政治にするつもりはありませんでした。むしろ、信長、秀吉と共に平和な国を作ろうと考えていた人です。ですが、教科書は色々編纂されています。なぜなら、明治万歳ってさせたいからです。幕末で明治政府が勝ったからこそ余計にその傾向があります。だからこそ、本当のことを教えたいと思いこのような内容にしました。果たして「どうする家康」ではどのような展開になるか?今後はちゃんと見届けたいと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう