戦国1の謎事件!本能寺の変とは何か?

どうも、りかちゅうです!戦国時代には永遠に解けない謎の事件があります。それは本能寺の変です。十兵衛が信長のことを追いやった事件ですね。「麒麟がくる」の本能寺の変が思い浮かびますが。あの本能寺の変は号泣しました。まあ、そんなことはさておき、本能寺の変ってなんで謎なのと思いますよね?それは信長の遺体が発見されなかったからです。いなくなったら出できますからね。それなのに何もないって不思議です。燃えたという説もありますがそれでも謎扱いです。また、起きた発端に関しても色々説があります。黒幕が複数いる感じですね。では一体どういう事件なのか?この記事にて話したいと思います!

本能寺の変とは何か?

本能寺の変とは何かは分かるかと思います。ただ、詳細は知らないという人もいるはずです。ですので、まずは簡単な概要を話したいと思います!本能寺の変とは1582年6月2日に起こった十兵衛による襲撃事件のことです。確か早朝でしたね。本当は十兵衛なんですが秀吉の中国攻めを手伝う予定でした。ですが、それをしないで途中で本能寺に向い信長を討ちました。そこは「麒麟がくる」を見ればどのような流れだったかは分かるのかなと思われます。

本能寺の変の前に何があったのか?

本能寺の変の概要は以上です。でも、十兵衛はなんで信長を討ったなと思いますよね。理由がないのはあり得ないですし。ですので、本能寺の変の前に何があったのかを書きますね!

1.武田を攻める

信長は武田家にけりをつけるために1582年1月に甲州征伐を開始しました。その際に信長が優勢で1582年3月に武田勝頼は天目山で自害したため武田家は滅亡しました。これによって織田家の領土は西は播磨、東は上野までとなりました。さらに宇喜多家などの臣下となった大名を含めると総石高は700万石を超えです。これは信長の天下統一はもう目前までに迫っていました。

2.中国攻め

ただ、それだけで終わりではないです。最後の大仕上げとして戦わないといけなかったです。

 

秀吉は中国地方の大大名である毛利家、柴田勝家は越後の大名である上杉家を、滝川一益は関東地方の大名である戦国の北条家を担当していました。肝心な信長は伊賀を攻めて伊賀を平定していました。それで、その中でうまくいってなかったのは秀吉です。

 

秀吉は備中高松城という城を取り囲んでいました。ですが、この備中高松城は周辺が深い沼地な上に周りに山が囲まれ、攻めるには不向きな城でした。そこで、秀吉は水攻めという城全部を水で囲むという作戦を実行しました。ただ、毛利の5万の軍勢が備中高松城まで来るという話が浮上しました。そこで、秀吉は信長に救援要請をしました。その時に選ばれたのが十兵衛です。この時5月の下旬でしたね。

3.本能寺の変の前の十兵衛

本能寺の変が起こる直前、十兵衛は亀山と坂本を治める大名でした。もちろん、十兵衛も中国攻めに参加するところでした。ですが、十兵衛はこの時信長にあまりいい感情を持っていません。どうやらハゲと呼ばれたり家康の接待にヘマをしたせいで信長に大激怒されたりと色々ありました。

本能寺の変の経緯

要するに、中国攻めシーズンのとき十兵衛は信長にいい思いを持っていませんでした。では、本能寺の変は具体的にどんな流れで起きたのか?

1.本能寺に向かう計画

1582年6月2日に起きます。それは変わらないことです。十兵衛は中国攻めに向かうためにこの1日前に亀山城を出発したばかりでした。その際に十兵衛は途中で分岐点に到着します。右に行ったら本能寺。左に行ったら中国地方です。この時点でどうする家康ではなくどうする十兵衛の領域です。

2.信長の場合

信長は中国攻めの援軍に向かうついでに本能寺に宿泊していました。本能寺は当たり前ですが寺です。ですご、周りには城と同じように堀に囲まれており防御は完璧です。ここで信長は京都の有名な僧と茶会を楽しんでいました。そのため、連れてきた兵の数はほんのわずかしかかったそうです。諸説によると250人いるかくらいだったとか?

3.本能寺襲撃

明け方である午前5時頃に信長は光秀が本能寺を襲撃したという知らせを聞きます。光秀はその時1万人の軍勢を持っています。もう絶望的です。一生懸命戦いましたが、信長のお気に入りかと森蘭丸は討ち死です。信長は自害してしまいました。その後十兵衛はそこから天下を取ろうとしますが秀吉がその読みを知ってしまったことから秀吉にやられてしまいました。

なんで謎なのか?

本能寺の変の流れとしてはこんな感じです。ではなんで謎なのか?1番デカいのは遺体でしょうね?燃えて死んだならば遺骨が残るはずです。それなのにないんですよ?もうこれ遺骨が燃えたか逃げたかの両方の説が考えられます。また、本能寺の変を起こしたのは十兵衛ではあります。ですが、黒幕が誰なのかな説がたくさんありまして。それだけ敵が多かったのかしれませんが。それ故に誰が犯人なのかは分からないのはもちろんのこと生きてるのか死んでんのかも分かりません。もうこれは戦国1の謎になってもおかしくないです。詳しいことはこちらの記事を見てください!

なぜ本能寺の変が謎なのか?

本能寺の変の真相

本能寺の変に関しては色々説はあります。ですが、私のなかでこれが真相なのかと思っています。きっと歴ヲタは信じてくれないでしょうけど。ですが、話したいので話します!

本当のこと

結論から言いますと信長は死んでいません。あれから長野でゆったりと暮らしました。でもなんで盛大なことをしたのかって?表の世界から引っ込みたかったからです。信長は世襲を嫌っていました。世襲だと家の子供だから後を継げます。これって問題なんですよ。なぜなら、能力なくても家の子供だから出世できてしまうからです。このことは信長は知っていました。そこで、庶民の気持ちのわかる秀吉に後を継がせたいために本能寺の変を起こしました。それで、信長を潰す係が十兵衛だったわけです。ちなみに十兵衛はその後情報を集めやすくするために天海となりました。そこに関しての説は色々あります。

なんでその説を信じるのか?

そんなことあるのって?私はそれに賭けます。まず十兵衛と信長の仲が良かったです。それなのにいきなり仲が悪くなるなんて不自然です。そこには違和感がありました。ただ、それだけではないです。江戸時代に答えがあります。江戸時代はみんなが思うよりも平和な時代でした。教科書には悪いように書かれていますよ?ですが識字率は高いし子供天国でした。他の国ならそこまで子供を大切にしてません。それを見るだけでも江戸時代は平和な時代だと思えるはずです。

では、なんで江戸時代はそんなに平和になれたのか?それは信長、秀吉、家康の3人が計画したからです。提案者は信長です。となると、あえて引っ込んだのもその計画のうちなのかと思っています。なんでそう思えるのかって?先ほどの世襲の話です。もし信長が生きて後継を自分の息子にしてもうまく行かないと思うんですよね。信長みたいに鍛えられてるわけでもないし。実際にもし息子が継いだという展開があってもポンコツだから織田は息子の代で終わるみたいな意見もありますし。それ故に平和にしようという計画のためにあえて本能寺の変で引っ込んだのかなと思ってます。この話の詳細はいつか詳しく話したいですね。

まとめ

私からしたら茶番劇だから謎が多いんだよと思うばかりです。もし明確的な何があれば謎になりません。あと秀吉の行動を中国地方から本能寺エリアまで戻る速度からしてもおかしいんですよね。今の時代のように飛行機も車も新幹線もないわけですし。この時点で秀吉は色々知っていたのかなと。それ故に裏話を信じています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう