義経の名案!一ノ谷の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!平家物語でこんなシーンがあるのは覚えていませんか?それは義経が急な崖から降りることを提案し、実際に義経軍は実行し、平家を倒したシーンです。なんとなく分かるという人もいるかと思われます。私的にはそのシーンを見てすごいなと思いました。そんなところから降りるなんて斬新だなと思うだけでなくなんかひやっともしました。それで、このシーンは一ノ谷の戦いです。もうここまで来ると源平合戦もラストになってきます。そして、一ノ谷の戦いから本格的に盛り上がるところです。では、どんな戦いだったのか?今から話したいと思います!

一ノ谷の戦いは?

一ノ谷の戦いって何だよと思う人もいるかもしれません。ですので、まずは一ノ谷の戦いとは何かについて話しますね!

一ノ谷の戦いとは、1180年から1185年という長期間に渡って戦われた平氏と源氏の内乱である、治承・寿永の乱の1つです。ちなみに、一ノ谷の戦いは1184年に摂津国福原および須磨(今でいう兵庫県神戸市)で行われました。きっかけは1184年に後白河法皇が平氏が持ち去った三種の神器を奪い返すように頼朝に命じたことから始まりました。この戦いは義経が断崖絶壁から平氏を襲う「逆落とし」が有名です。

一ノ谷の戦いの経緯

以上が一ノ谷の戦いの概要です。では一ノ谷の戦いはどのような経緯で起こったのか?

1.治承・寿永の乱の後半戦

先ほども述べたように一ノ谷の戦いは治承・寿永の乱の1つです。後白河法皇の皇子こと以仁王が平氏を打倒するために兵を挙げたことがきっかけで、全国に平氏に対抗する反乱が起こります。この乱ぇは多くの戦いが行われました。それは平氏と源氏の戦いだけではないです。源氏同士の戦いもありました。そして、後の鎌倉幕府を開く源頼朝の地位を確立することになりました。ちなみに、一ノ谷の戦いは後半戦です。後半ほど壮絶な戦いでした。それもあって、歴史の教科書にはよく書かれています。

2.水島の戦い

一の谷の戦いが起こる前に水島の戦いが起こりました!水島の戦いはとは1183年11月に備中国(今でいう岡山県倉敷市)で義仲軍と平家軍の間で行わた戦いのことです。この戦の前に、義仲軍は平家を打破。それによって平家はは都を離れ、三種の神器を持って九州まで逃げていました。その後、後白河法皇の命令で再び義仲軍は平家を討ちに行きました。水島の戦いとなりますが負けてしまいます。その結果によって、後白河法皇は義仲に頼るのをやめて頼朝に頼ろうとしました。ですが、そのせいで義仲の怒りをかいます。それ故に義仲は後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉してしまいます。これが、法住寺合戦です。1184年1月に行われた戦いですが結果は義仲軍の圧勝でした。

3.宇治川の戦いで義経が義仲と戦う

法住寺合戦で圧勝した義仲軍ではあるものの、義仲は法皇や天皇からの信頼を失くし頼朝の勢力が大きくなるのを見て多くの兵が義仲を見限り兵力は激減します。それで、頼朝は範頼と義経に義仲を討つように命じます。それが宇治川の戦いです。1184年1月に、京都近郊の宇治(今でいう京都府宇治市)で戦われました。この戦いの中で、義経は幽閉されていた後白河法皇を確保することに成功しました。そして、義仲は京を逃げようとしますが討ち取られてしまいました。これで源氏同士の争いは終わりました。詳しいことはこちらに書かれています!

義仲の最期!宇治川の戦いと粟津の戦い

一ノ谷の戦いの流れ

簡単に言えば水島の戦いと宇治川の戦い絡みで起きたのが一ノ谷の戦いということですね。では、具体的にどういう流れなのか?今から話したいと思います!

1.義経の活躍

源氏同士の争いがあったことで平家はその間に力をつけます。流れとしては九州へと逃げた平家ですが、福原(今でいう兵庫県神戸市)まで進出して、瀬戸内海を制圧しました。そして、中国、四国、九州地方を支配するようになりました。一方で源氏は宇治川の戦いの後、後白河法皇から三種の神器を奪い返す命令が下っていました。そこで、頼朝は源範頼と義経を派遣することにしました。2人は摂津(今でいう大阪と兵庫の間)まで兵を進めたした。その後、義経軍は丹波路(今でいう京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部あたり)を通って播磨国(今でいう兵庫県南西部)に陣を取っていた平資盛と平有盛の軍と戦い勝利。軍を進める義経は鵯越で、軍を二手に分けました。その際に義経は70騎のみで山道へと進んでいきます。

2.いよいよ一ノ谷!

1184年3月20日、義経軍から抜け出した熊谷直実と直家の親子の5騎が平忠度軍に名乗りを上げて、戦いが始まりました。平氏は福原を中心に数か所に陣を構えていました。それで、その1つである生田口と呼ばれる場所で平知盛と重衡は陣を組んでいました。その陣に範頼軍5万騎が矢を放って攻撃を仕掛けます。ですが、平家軍は壕をめぐらして待ち構えており、逆に平家軍も激しく矢を放ってため激戦でした。詳細としては福原を守るために置いた平家の陣は、生田口の他に夢野口と塩屋口がありました。それで、平家も奮戦していたため源氏は簡単に陣を破ることはできませんでした。

 

3.義経の名案

一方、山道を進んでいた義経は、一の谷の裏手となる断崖絶壁へと到着しました。ちなみにそこは、平忠則が陣を置いていた塩屋口の近くでした。なんと70騎を率いた義経は一気に絶壁を駆け下り平家軍を襲撃しました。漫画だと鹿が行けるならば馬も大丈夫っていうシーンがありますね。もちろん、平家は全く予想していなかったです。そりゃ、そうですよね。馬が降りるなんて聞かないくらいの崖ですから。それ故に平家軍は大慌てで海へと逃げました。生田口にいた平重衡はその情報を聞き攻撃にあっている夢野口へ行きます。でも、そのあと源範頼軍に攻撃を受けていた生田口で陣を守り切れずに敗走を始めます。それで、安徳天皇と建礼門院と共に船の中で戦いの状況を見守っていた平家の総大将の平宗盛はこの敗北を認めて屋島へと逃げました。

一ノ谷の戦いのその後

一ノ谷の戦いはこんな感じです。では、その後どうなったのか?結論としては壇ノ浦の戦いが起きました。一ノ谷の戦いの後平氏は屋島(今でいう香川県高松市)へと逃げます。そして、1185年3月22日に屋島の戦いが行われました。結果は平家が敗北です。でも、平家は諦めませんでした。なんと、今度は彦島(今でいう山口県下関市にある島)へと逃げます。

義経の逆落ちはあったの?

肝心なのは義経の崖からの逆落としは現実にはあったのかどうかですよね?義経が逆落としをした場所は、鵯越(今でいう神戸市兵庫区鵯越町)だそうです。この地は、一の谷(今でいう神戸市須磨区一の谷町)から東方8キロに位置しています。地理的にここから一の谷へ一気に攻撃をかけたというのは矛盾が生じるそうです。それもあって、近年では逆落としの場所は一の谷の裏にある鉄拐山の崖である方が現実的と言われています。ですが、逆落とし自体が本当にあったのかどうかも定かではないそうです。なぜなら、当時の一級史料「玉葉」には、義経が一の谷から平家を急襲したという記述がないからです。それ故に「平家物語」の創作ではないかという説はあるそうです。

まとめ

この戦いの勝因は義経のアイディアであることは間違い無いかと思われます。まさかの急な崖から降りてゆくなんて考えてもなかったはずです。しかも、義経って欧州時代は戦に出ていたわけでもないです。それなのに、戦が強いというのはもう先天的な能力と言っても過言ではないです。だからこそ、義経の能力が欲しくなるこの頃です。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう