道長のお父さん!藤原兼家とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!光る君への「君」は道長のことであるのはもう分かりますね。他の人になったら事件かと。ワンチャン掛詞みたいな感じで他の人も対象になっていたら驚きますが。まあ、そんなことはさておき、その道長のお父さんは藤原兼家です。彼に関しては道長のように権力のあった人だったそうです。教科書では道長の方が目立っているから歴ヲタビギナーにはそうなのかと思いますが。それで、兼家なんですが権力を得るためにかなりの対立をしていたそうです。分かる人には分かるでしょうね。私的には道長が倫子と結婚して対立が収まったことが印象的でしたね。縁を結ばないといけないくらいのものかって意味で。では一体彼はどんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

藤原兼家のプロフィール

道長の方が目立っているからこそ兼家がどんな人かがよくわからない方もいると思います。ですので、簡単なプロフィールから見ていきましょう!

 

名前 藤原兼家

生年月日 929年

出身の家 藤原北家

右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系だそうです。

没年 990年7月26日(享年62歳)

備考

道長のお父さんです。道長が権力を得るためのの土台を作ったのは兼家です。兼家なくして道長の活躍はないと言っても過言ではないですね。また、性格は明るくてフレンドリーたなめ笑いも取れちゃう人気者だったそうです。

藤原兼家の人生

以上ーが彼のプロフィールです。藤原北家なんて御曹司です。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

兼家は929年に右大臣・藤原師輔の子として生まれます。名高い藤原北家に生まれた兼家は生まれながらにして強い権力がありました。また、北家の貴族たちが目指したのは氏長者と呼ばれる最高権力者の座でした。そのため、たとえ家族であっても、足を引っ張り合うことはよくありました。兼家には兼通という強力なライバルがいました。

2.兄弟の確執

兼家は三兄弟の末っ子です。ではどんな確執があったのか?1人目のお兄さんこと藤原伊尹とは仲が良かったようです。そのため、関白となった伊尹の補佐役として宮中で力をつけていきました。ですご、2人目のお兄さんである藤原兼通は伊尹から冷遇されていたため兼家の官位が兼通より上になってしまったことで兼家・兼通間にも確執が生まれてしまいました。

3.兼通とのバトル

968年に兼家が兼通の官位を超えて、従三位と蔵人頭に任命されたことで2人の仲はさらに悪化することとなりました。なんと969年に参議を経ずに中納言に任命された兼家は972年には大納言に任命されるなど順調に昇進していくこととなりました。しかし、兼通は彼を陥れようとします。兼通は円融天皇に対し亡くなった兼通の妹でありかつ天皇の母后でもある安子の遺言状を見せました。その遺書には「関白は兄弟の順によるべし」と書かれてあったのです。これを見た円融天皇は遺言通りに兼通を関白に任命しました。その時兼通は今すぐにでも兼家を左遷してやりたいという愚痴を言っていたそうです。自分より先に出世した兼家のことを相当憎んでいたのかなと思われます。

4.それでも諦めない兼家

華々しい出世街道を歩むも、兄によって妨害されてしまった兼家は977年には兼通によって治部卿に左遷されるものの、兼通がいなくなってから右大臣へと返り咲きます。

なんとライバル兼通が亡くなったことで兼家の出世を邪魔する者はいなくなれば怖いものないですけらね?まず、高みを目指した兼家は自分の娘こと詮子と円融天皇との間に生まれた皇子を擁立させようと画策することとなったのです。

5.一条天皇を擁立し外祖父となる

娘の子・懐仁(やすひと)親王を次期天皇にするべく、兼家は時の天皇・花山(かざん)天皇に接近します。寛和2年(986)、兼家は巧みな話術で天皇に譲位を勧め、出家させることに成功したのです。花山天皇が出家したことで、懐仁親王が一条天皇として即位することとなりました。なぜこれが良いことなのか?実は当時の貴族社会では夫婦の間に生まれた子どもは母方の親族によって養育されるのがデフォルトだったそうです。そのため、一条天皇を擁立することができた兼家は外祖父として待望の摂政になることができたのです。

6.最期

天皇と繋がれたのは最高ですね。ただ、それだけではありません。摂政や関白などの役職は大臣の兼職であることが一般的でした。ですが、一条天皇即位の時に兼家は右大臣を辞職し摂政として単独で実権を握ったのです。それから摂政は独立した強い権力となりました。これで摂政として実質的な支配者となることができた兼家は989年に太政大臣となり990年には関白に就任しました。その後、病気が原因で関白職を長男の道隆に譲り出家することとなります。出家後も華やかな生活を続けたそうですけどね。それから62歳でいなくなりました。

 

藤原兼家の女事情

以上が兼家の人生です。彼が権力争いで勝ったから道長が権力を得ることができたのが分かりますね。そんな兼家なんですが驚く一面ふがあります。それはかなりの女好きです。明るい性格でモテていたから遊んでいたそうです。ではどんな感じに遊んでいたのか?その話もしますね!

1.長男が誕生の時に2人目の奥さんを作る

そんな彼の1人目の妻は時姫というお嬢様だそうです。金持ち同士の結婚ですね。2人は仲が良かったそうです。また、長男の道隆も誕生しました。それでいいのではと思いますがそうはいきません。なんと同じ頃、兼家は2人目の奥さんと結婚したそうです。詳細としては兼家は1人目の奥さんの赤ちゃん妊娠出産と同時進行で次の女性の元に通いせっせと手紙のやりとりをするだけではなく赤ちゃんが産まれた頃に2回目の結婚をしました。

2.次男の時は3人の女性と同時進行

2 人目の奥さんと結婚して約1年後、今度は2人目の奥さんが妊娠し男の赤ちゃんが生まれました。ちなみに2人目の奥さんは「蜻蛉日記」という手記を書き残しています。入試でも扱われている作品ですね。それによると彼女は出産1ヶ月も経たないうちに兼家の机の上でとんでもないものを見つけました。それはなんと、3人目のターゲットである女性へのラブレターでした。2人目の奥さんが妊娠出産な時に兼家は3人目の妻と結婚してしまったことになります。

3.結婚しても7人の女性と関係を持つ

兼家は合計7人もの女性と婚姻関係を結びました。平安時代は一夫多妻制ではあるものの女の人からしたら自分だけを愛してと思ったことでしょうね。2人目の奥さんの書いた物を見ると他の妻の元に通う事に対しての嫉妬と怒りや嘆きなどマイナスな感情がたくさん書いているそうです。

まとめ

権力争いのことや出世したことよりも女遊びに目がいってしまいましたね。光る君へでは道長ほど表に出る性格ではないからこそドラマでは描かれない一面だど思いました。ドラマだど花山天皇の陥れ計画の方が目立つのかと思いますね。これを見て兼家は男性社会ではギスギスした点はあるものの女には優しい人なのかと思ってしまいました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう