信玄の息子!武田勝頼とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!武田信玄は分かりますよね?風林火山で有名ですし。では息子はご存知ですか?教科書にも載っていますが武田勝頼です。彼に関しては長篠の戦いで織田と徳川に負けたしか書かれていません。おまけに彼の代で武田家は滅びましたし。確かに事実です。それもあってなのか、武田勝頼は信玄と違って劣っているみたいなイメージはできています。きっと歴史に疎い人なんて信玄死んでから衰えた見たいに思っているはずです。私も調べるまではそのように思っていました。ですが、違います。実は信玄並みの強さはありました。ですが、長篠の戦いの時に予想を外したせいで負けました。このように、武田勝頼には色々裏話があります。ですのでこの記事にて話したいと思います!

武田勝頼のプロフィール

武田勝頼ってどういう人物かの詳細を知らない人もいると思うのでまずはそこから話したいと思います!

名前 武田勝頼

生年月日 1546年

出身地 甲斐国

没年 1582年4月3日(享年37歳)

備考

武田信玄の息子です。本当は強い武将でしたが武田勝頼の代で武田家は滅びてしまったためその強さは隠れてしまっています、本当勿体無い武将ですね。

武田勝頼の人生

以上が武田勝頼のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

武田勝頼は1546年に武田信玄の4男として生まれます。母は信濃国諏訪の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人でした。ちなみに武田勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられています。ですが、諏訪家は信玄との同盟を破棄ました。そこで、信玄は諏訪に侵攻、諏訪一族は滅亡しました。これはピンチですね。ただ、武田勝頼は救われました。信玄はかつて信濃を支配していた家に自らの子供たちを養子として送り出すことで融和策をとりました。その際に武田勝頼も母の実家であった諏訪家の名跡を継いで名前も諏訪四郎勝頼となります。それ以降武田勝頼は信濃高遠城主となり武田家を支えました。

2.初陣

武田勝頼の初陣は1563年の箕輪城攻めです。長野家の家臣こと藤井豊後が物見から帰るところを追撃し討ち取りました。その後の箕輪城、倉賀野城攻めなども成功します。それ以外にも勝頼は1569年の滝山城攻めで北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされます。このように、勇気と力はすごくあったことから武将としては大変優秀でした。

3.義信事件と家督相続

1565年に信玄の嫡男こと武田義信と飯富虎昌などが信玄の暗殺を企てました。ですが飯富虎昌の実弟である飯富三郎兵衛の密書により計画はばれました。そのため、飯富虎昌などは謀反の首謀者として処刑されました。そして武田義信も幽閉されます。これを義信事件と言います。この事件の影響で武田勝頼 の運命が変わります。次兄の武田竜宝は生まれつき盲目のために出家し、三兄の武田信之はもういなくなっていました。そのため、四男の武田勝頼が後継者と定められます。ただこのことが後々家臣の統制を難しくする理由となっていきます。

4.長篠の戦い

長篠の戦いでははじめは順調でした。長篠城を包囲していましたしね。ですが、信長と家康の連合軍が巻き返したことから負けてしまいました。そこらへんに関する詳細はこちらに載せているのでこの記事では多くは語りません。その後の方が大事なんです!

鉄砲の登場!長篠の戦いとは何か?

 

5.御館の乱

長篠合戦で敗北した武田家は再建のため外交に力を入れます。まず上杉家との同盟を模索します。また、1575年に都を追われた足利義昭は武田家と北条家、上杉家の三者の間での和睦をするよう呼びかけます。武田家はその話に同意します。ただ、上杉は
北条家との和睦には難色を示しました。とは言えども、武田と上杉の和睦は成立しました。ですが、1578年に上杉謙信が病死します。上杉謙信には子供がいません。そこで、北条氏政の弟で上杉謙信に養子として出されていた上杉景虎と、上杉謙信の姉の子こと上杉景勝が候補となりました。
それでこの2人の間で家督を巡って争いが起こりました。それが御館の乱です。武田勝頼は北条氏政から支援を要請されたものの、武田勝頼は景勝にも景虎にも加担はしませんでした。そのため、武田家は北条家と険悪な関係となり同盟関係は破綻しました。

5.徳川・北条の戦い

武田勝頼は織田家や徳川家に対抗するため上杉家と同盟関係になったものの北条家と関係が悪化します。1579年4月には勝頼は駿河江尻城へ出兵すると徳川家と対峙します。また7月には東上野に進出、北条家とも対峙しています。そしてその間に状況はますます悪化していきました。1579年9月には徳川・北条間で同盟が成立したことから武田領へと出兵しています。反対に1580年には武田勝頼が出兵し北条家や徳川家と対峙しました。これは家臣の中に不満が積もっていきました。

6.最期

勝頼は新府城を築城し本拠移転を開始します。その間に高天神城は落城してしまいます。それなのに応援に行かなかった事で武田家の家臣は大きく動揺しました。また、1582年2月に信玄の娘婿で木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼んだことから織田に寝返ります。もうツムツムです。いろんな人が武田家を侵攻しました。また、浅間山が噴火します。「真田丸」でもその描写がありましたね。

もう抵抗が出来なくなった武田勝頼は新しく築城した新府城を放火し逃亡します。しかし天目山において織田の追っ手に追いつかれ最期は自害しこの世を去りました。享年37歳です。「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」という辞世を残したそうです。。

武田勝頼のエピソード

こんな感じで最期は負けて滅びましたが彼には色々エピソードがあります。ですので、その話もしたいと思います!

1.信玄よりも領土を広めた?

武田勝頼なんでですが織田・徳川に対抗するため領地を拡大させています。東美濃の明智城、北三河の足助城・武節城、遠江の高天神城を攻め落としています。その中でも高天神城は信玄も落とせなかった城でした。となると、勝頼の軍事力は信玄にも劣っていないことになりますね。このような功績から石高も22万5千石から100万石まで拡大しています。また、タレコミエピソードとしては上杉謙信にあてた信長の書状においても武田勝頼は武勇に優れた武将であり油断は禁物と警戒を促しています。このように周りにも評価されていたことから江戸時代の「甲陽軍鑑」においても武田勝頼は強すぎる武将と書かれています。

2.信玄へのコンプレックス

武田勝頼は武田家当主になってから武田家の統率に苦悩します。なぜなら、武田勝頼は信玄の時代になり敵対していた諏訪家の血を引くものだったからです。これは武田家の古くからの家臣達からよく思うわけないです。武田勝頼は家臣を納得させるため奔走し次第に領土を拡大して行きました。そんな矢先に長篠の戦いが起こります。先ほども述べたように圧倒的に不利な状況であったため家臣から撤退の進言もあったようです。ですが、結果を出したくて家臣の進言を無視し、戦いに敗れてしまいます。

それ以降も最悪なことが起きます。まず領国再建に向けて北条氏と和睦をはかり同盟強化に努めています。ですが、御館の乱にて上杉景勝に支援したため北条氏と決裂してしまいました。やらかしはまだあります。なんと守りを強固にしようと新しく城を築きました。そのためのお金は家臣と領民です。これはもう離脱する人が増えますね。このせいせ武田家は滅亡しました。信玄を超したいという気持ちが強すぎたから焦って判断ミスをしてしまったのかもしれませんね。

まとめ

長篠の戦い以降も生きていたんですね。家が訳ありだったのによく頑張っていたと思います。ただ、長篠の戦いで負けてしまったことから詰んでいってのかなと思います。だからこそ、どうする家康で評価されたらいいなとは思う人材ではあります。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう