鉄砲の登場!長篠の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!戦国時代では鉄砲が使われていました。他の時代で使われていたっけって思うくらいですね。それまでは弓や刀がメインでしたし。ですが、戦国時代のある戦いを機に使われるようになりました。それは長篠の戦いです。武田と織田・徳川の戦いですね。信長は前々から鉄砲に目をつけていました。そのため、長篠の戦いの時に使っていました。それで、その鉄砲が結果を左右しました。要するに、鉄砲があったから信長が勝ったと言っても過言ではないということです。そりゃ武田側はその戦略に慣れていないわけですし。初めは優勢でも鉄砲が来たら終わりです。では一体どのような戦いだったのか?この記事にて話したいと思います!

長篠の戦いとは何か?

長篠の戦いとはどのようなものかを詳しく知らない方もいるのかなと思われます。ですので、まずはそこらへんから話したいと思います!

長篠の戦いとは1575521日三河の長篠で起こった織田・徳川の連合軍vs武田勝頼の戦いです。戦場となったのは長篠城と設楽原の2か所です。それで、教科書などで話題になっている日本で初めて鉄砲が使われたことで知られているのは設楽原での戦いです。また、教科書などでは織田と徳川の連合軍が3万、武田軍が15000と言われてきましたが実際の数はわかっていません。

 

長篠の戦いの原因

以上が長篠の戦いの概要です。ではなんで長篠の戦いが起こったのか?

1.武田勝頼の挑発

家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。信玄がいなくなってからの武田勝頼は信玄の志しを引き継ぎ1574年に尾張・三河・遠江への侵攻の拠点となる信長の領地こと美濃の明知城、信玄でも攻め落とせなかった家康の領地こと遠江の高天神城、1575年には三河の足助城など、次々と攻め落としていきました。このように武田勝頼は勢いが良かったです。そして次に狙ったのは家康の領地こと長篠城でした。

2.長篠城の包囲

武田勝頼は長篠城へと進軍し城の周りを取り囲むと何度も攻撃を仕掛けました。その際に長篠城の城主奥平信昌は500名という少ない兵でありながら、なんとか耐え抜き、家康の助けを待ちました。奥平信昌から救援要請を受けた家康は信長にも出兵を依頼し長篠の戦いへ臨みました。

長篠の戦いの経緯

このように、原因は武田勝頼の領地拡大でした。信玄並みの勢いがありますね。ではどういう経緯でこの戦は行われたのか?

 

1.準備の整った織田と徳川

織田・徳川は長篠の設楽原で武田軍を迎え撃つ準備を始めました。設楽原でサイドからの敵の侵入を防ぐ対策として柵や空堀、土の壁、斜面を削った人工の断崖などをつくりました。これでもし武田軍を誘いこめば徳川・織田が有利に戦えるというわけです。さらに、信長は決戦の前日に本隊とは別の4,000の兵からなる機動部隊をひそかに長篠城に送っていました。こうすることで設楽原での開戦とほぼ同時に機動部隊が長篠城を包囲する武田軍を攻撃し長篠城を奪還しようという作戦ができます。

2.武田勝頼の自信

武田軍は織田・徳川の連合軍との戦いにおいて家臣の間で意見が分かれました。信玄の時代から仕えてきた重臣たちは「今回は撤退するべき」や「長篠城を奪ってから、連合軍を長篠城で迎え撃つべき」と提案します。ですが、武田勝頼が選んだのは勝頼の側近たちの意見こと「設楽原へ軍勢を動かし攻撃する」というものでした。なんで無茶振りをしたのか?それは信玄もできなかった家康の首をとるチャンスが目の前にあったからかと思われます。またそれだけでなく、信長や家康に連戦連勝していたという自信や設楽原で連合軍が動きを止めているのは攻める準備が整っていないからという誤解がありました。

3.織田・徳川の勝利

武田勝頼は信長や家康の作戦にまんまとひっかかってしまったことによってこれまで武田家を支えた家臣や数千の兵を失うことになりました。一方、信長と家康は長篠城を奪還することができただけでなく戦いにも勝利しました。鉄砲の威力もあったと思いますが武田勝頼が罠にはまったことで勝利を得ることができましたね。

 

 

その後

長篠の戦い後武田の力は衰えていきました。このきっかけでしょうね。武田勝頼も信玄と並ぶくらいに強かったのにもったいないです。それから長篠の戦いから7年後の1582年に信長・家康・北条氏政らは武田氏を滅ぼすため武田征伐を開始しました。追い詰められた武田勝頼は武田家の家臣小山田信茂(の岩殿山城に逃げ込もうとしますが裏切られてしまいます。真田丸でもその描写がありましたね。ここまできた武田勝頼は武田家ゆかりの地天目山で自らの命を絶ちました。

長篠の戦いの実話

長篠の戦いには通説は盛っているそうです。ガセなのって?そこまでではないですが真相はそれほどと思えばいいです。では具体的にどういう点が盛っているのか?

1.鉄砲は3000丁ではない?

長篠の戦いの定説は武田軍の騎馬隊を織田・徳川連合軍が3000丁の鉄砲で撃退したといわれてきました。ですがこの説が怪しくなってきました。理由はその説は江戸から言われていたものでした。そのため、信憑性に乏しいと考えられるようになりました。今では信長の家臣が書いた「信長公記」と現地での発掘調査の結果を下に新たな解釈がなされるようになっています。

 

2.武田の騎馬隊はポニー?

朱色で統一し武田の赤備えと呼ばれた武田軍の騎馬隊も大袈裟な表現ではあります。実は馬に乗って戦う騎兵は武田軍全体の1割程度だったようです。そのため、騎馬隊と呼べるほどの規模も迫力もなかったそうです。さらに、その当時の馬は120cmほどの在来種の馬です。今でいうポニータイプと思えばいいです。このようなことを踏まえてもあまり戦闘能力はなさそうですね。

まとめ

りかちゅう