家康と秀吉に仕えた!石川数正とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康が幼いことからずっといた家臣がいます。家康が今川も人質となる時から一緒にいたそうです。それなのにその方はある戦い(のちほどその戦の名前は分かるかと思われます)を機に秀吉の家臣となります。なんでそんなことをしたのかに関しては色々説がありますが長年家康の家臣だったのに秀吉に切り替えたのは事実です。その名前は石川数正です。彼は武功に長けている武将って感じではありませんでした。むしろ、和睦や交渉などをする時に活躍していました。その実力は家康も秀吉も認めていました。そうじゃなきゃ両方の家臣になるなんてことはないですからね。では彼は一体どんな人物だったのか?この記事にて話したいと思います!

石川数正のプロフィール

石川数正のことを知らない人もそれなりにいるのかなと思われます。教科書で取り上げられる人でもないですしね。ですので、まずは彼の簡単なプロフィールから見ていこうと思います!

名前 石川数正

生年月日 1534年

出生地 三河国

没年 1593年

石川数正の人生

以上が石川数正のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?

1.徳川家の家臣の子として生まれる

石川数正は1934年に三河国で生まれます。石川家は古くから徳川に仕えていた家です。そのため安祥七家(酒井、本多、大久保、阿部、石川、植村、青山)といって家康の草創期から支えた家の1つでもありました。また、石川数正の叔父こと石川家成は家康の母方の従兄弟だったそうです。要するに、徳川家とは血縁でも繋がっていたことになります。そのため、石川数正は家康が今川の人質となった時家康の近侍して駿河国で住むようになりました。家康同様親元を離れて駿河国で育っていったことになりますね。

2.桶狭間の戦いで信長と交渉する

1560年に桶狭間の戦いが起きました。その際に石川数正は家康の下で参戦します。ですが、信長奇襲攻撃により信長が逆転勝利を収めます。そんな中でも石瀬合戦では石川数正は先鋒隊として参戦しました。ですが、石川数正は信長の強さを感じたため家康に信長と和睦を提案しました。その際に石川数正は同盟を結ぶための調整役を務めました。これは重要な役割です。この頃から知将としての才覚を発揮しはじめました。そのため、家康から信頼される人物となりました。

※桶狭間の戦いでは家康は信長寄りです。家康は以前信長の人質で兄弟のように仲良かったんけですから。そのため交渉と言ってもある意味茶番劇ではあるはずです。

3.父と決別と家康の重臣としての活躍

1563年に起きた三河一向一揆で状況は一変します。実は石川数正のお父さんが家康に造反する本願寺の一向宗の総大将となってしまったのです。一方石川数正は家康側についたのでお父さんと敵対関係となります。その結果お父さんとは決別し家康の重臣となります。その際に石川数正は徳川四天王のような武功係ではなく懐柔策を提案したり調整を図ったりする係になりました。また、家康の嫡男こと松平信康が岡崎城主となると石川数正は松平信康付きの家老となりました。

4.松平信康との別れ

1579年に松平信康の正室であった徳姫が信長に松平信康と築山殿が武田勝頼と内通していると密告します。その結果、築山殿は殺害され、松平信康は自害に追い込まれました。その後、石川数正は岡崎城代を命じられますが松平信康の死は石川数正にとっても大きな衝撃ではありました。となると、家康に対して不信感を芽生えてもおかしくないかもしれません。

5.小牧・長久手の戦いと主従変更

信長が本能寺の変で自害してから。秀吉と信長の次男こと織田信雄は対立します。そこで、家康は織田信雄と同盟を結び秀吉と共に戦います。それが小牧・長久手の戦いです。この戦は石川数正にとっては転機となりました。それは和睦の時です。小牧・長久手の戦いは家康の方が優勢でした。ですが、最終的に秀吉が和睦をするという作戦を取ったことで戦は終わりました。その際に交渉をしたのが石川数正と言われています。その姿を見た秀吉は石川数正に自分の家臣となるよう誘います。その影響なのか、徳川家の繁栄のためスパイとなったのか分かりませんが石川数正は秀吉の家臣となりました。

6.松本城城主となる

1590年に秀吉は小田原征伐し天下統一をします。北条家が滅亡すると家康が関東に移封されました。そのため、それまで家康が統治していた信州、甲州、東海道を秀吉の家来たちに分け与えます。その際に石川数正は信濃国松本10万石に加増移封されました。石川数正は戦いに向いた雄大な城こと松本城を築城し城下町の建設に尽力していました。ちなみに松本城はその美しいため沢山の人が魅了しているそうです。このように、移封されてからも頑張ろうとしていたのに3年後の1593年に石川数正は亡くなりました。

なんで秀吉の元に渡ったのか?

にしても、なんで石川数正は秀吉の元に行ったんだよと思いますよね?その話をしたいと思います!

1.スパイ説

石川数正が徳川家康に命じられたか。石川数正自身の意志なのかは分からないですがスパイとして秀吉の元へ行った説もあります。要するに、秀吉に仕えるふりをして家康に情報を流していたということです。

なんでその説があるのか?それは石川数正が寝返りをしたの理由が確定していないためスパイ説も否定はできないからです。

2.秀吉の人たらしの影響

秀吉は優秀な人材を自分になびかせる才能を持っています。そのため、人たらしの名人とまで言われています。石川数正もその人たらしさに魅了されたそうです。流れとしては豊臣と徳川の交渉です家康と秀吉と交渉するために選ばれたのが石川数正です。その際に石川数正は秀吉と関わることになります。となると、少しずつ秀吉の魅力を知り秀吉を選んでしまったという説もあります。

 

まとめ

家康にも従い秀吉にも従うなんてレアなのかと。家康はどう思っていたんですかね?スパイとしてならば良いと思っていたでしょうね。ですが、完全に変更ならば痛手なのかなと。これは本人のみぞ知るのかもしれませんね。まあ、そんな感じです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう