表裏比興な戦国武将!真田昌幸とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!今日の記事は楽しみです。なぜなら、私の推しの武将こと真田幸村のお父さんのことを書くからです。名前は真田昌幸です。まあ、どうする家康はつまらないと思っていますよ。ですが、心は真田丸にしているためうきうきです。私情はさておき真田家は最強でした。そうじゃなきゃ家康がたじたじになりませんからね。具体的には徳川の大軍を2度も上田城から敗走させました。そして、その戦術は幸村さんにも引継がれました。また、表裏比興な性格で戦国の世を乗り切りました。その様は他の武将も驚いていたそうですが。このように、昌幸は知将のうちの1人です。では一体どんな人だったのか?この記事にて話したいと思います!

真田昌幸のプロフィール

昌幸に関しては真田丸やどうする家康で見てはいると思います。だた、一応おさらいとしてプロフィールから見ていきましょう!

名前 真田昌幸

生年月日 1547年

出身地 甲斐国

没年 1611年7月13日

備考

家康が恐れていた武将です。元は武田信玄の家臣でした。ちなみにポジションは調略係です。昌幸は信玄に信頼されていたことが伺えます。武田が滅んでからは家を守るために転々としていました。

真田昌幸の人生

以上が昌幸のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んでいたのか?

1.生い立ち

昌幸は1547年真田幸隆の三男として甲斐国信濃に生まれました。真田家は真田家は小豪族であり、決して有力とは言えません。そのため、7歳の頃武田家の人質となりました。まあ、お兄さんも武田家の中核を担っていたから武田の人質になるのはおかしくないんですけどね。しかも、人質とは言っても信玄には可愛がられていました。そのため家臣1人でもありました。これは良いチャンスですね。だって信玄のそばで軍議や戦略会議を見れるんですから!これは自然と戦略勘が身につくこと間違いなしです。

2.お兄さんの死と武田家滅亡

信玄が亡くなった後に長篠の戦いが起きました。結果は武田の大負けです。その時に昌幸のお兄さんこと信綱と昌輝が戦死します。この影響で昌幸は真田家の当主として生きていくことになります。また、武田家の家臣こと小山田信茂が武田勝頼を裏切りったことで武田勝頼は行き場を失くし自害しました。そのため、真田は主がいない状況となりました。

3.主君を変える日々

その後は信長に従い、滝川一益の与力となりました。ですが、織田家臣となって僅か3カ月後に本能寺の変が起きました。その際に一益は京に向かう途中北条氏直に神流川の戦いで敗走しました。これを機に昌幸は一益の所領となっていた沼田城を奪還することに成功しました。その後沼田城は北条家から執拗な攻めに遭いますが守り抜きます。その後上杉・北条と次々に主君を代えた真田家は家康に従うようになります。ですが、武田の旧領地を巡って上杉・北条・徳川で争われていた天正壬午の乱で徳川と北条が和睦を結びます。その際に北条は家康に沼田領を要求しました。昌幸は納得がいきませんでした。そこで、徳川を離反し再び上杉に従いました。

4.第一次上田合戦

これを知った家康は上田城に攻撃を開始しました。1583年これがきっかけでこうして1585年に第一次上田合戦が勃発します。真田軍2000の兵に対し徳川軍は7000から10000です。どう見ても徳川の方がゆうりです。そこで、昌幸はあえて徐々に後退させる策を取りました。そうすることで二の丸まで誘き寄せて徳川を撃退しました。さらに戸石城で待機していた信之軍も援軍に駆けつけ奇襲をかけます。これで徳川はボロボロです。真田は圧勝しました。

5.秀吉に従う

上杉景勝が当時豊臣政権の五大老となったため昌幸は関白となった秀吉に接近していきました。その際に幸村を大坂城の秀吉の元に人質として出しました。そうすることで秀吉の家臣として召し上げられました。

6.第二次上田合戦

秀吉がいなくなってから誰がまとめるかでの争いがありました。それ故に1600年に関ヶ原の戦いが開戦。昌幸と幸村は西軍、信幸は東軍に付くという策を取りました。そうすれば家は存続できますからね。

その際に昌幸・幸村親子は第二次上田合戦で上田城に籠城します。その際に秀忠は上田城に籠城する真田軍を撃退しようとします。ですが、昌幸和睦に応じたのです。もちろん、これは罠です。まず昌幸は城を明け渡す気配が全くありません。そのおかげで秀忠軍は一週間近く足止めされました。これは拉致が開かないと思って急遽撤退し関ヶ原に向かいますが関ヶ原の戦い東軍勝利ではすでに終わっていました。そのため、秀忠は家康からキツイお叱りが待っていました。

7.九度山での幽閉生活

そして西軍に加担した昌幸・幸村親子は九度山にて幽霊されます。信幸の助命嘆願で死罪は免れたものかなり苦しかったそうです。どうやら仕送りに頼る厳しい生活だったとかそれでも昌幸は徳川とまた戦うために色々な戦法を考えていたそうです。ですが、それが実現することはなく1611年に65歳で病死しました。大坂冬の陣が始まる2年前のことです。

真田昌幸の性格

昌幸といえば表裏比興です。意味としては表裏のあり一筋縄ではいかない策士です。昌幸の領地は上杉家、徳川家、北条家の大勢力に挟まれた地域にありました。そのため、武田家が滅んでからはそれぞれの勢力に従ったり裏切ったりするなどして次々に主を変えていました。真田は弱小大名だったからこそ守るために次々と主を変えないいけないからその策を取ったのかと思われます。そのため、ずる賢く、自分の事しか考えていない人物と見られがちです。ですが、収穫の厳しい時には年貢を半減するなど領民に対しては優しかったそうです。

 

真田昌幸の逸話

キャラの濃い昌幸だからこそ、逸話はあります。ではどのような逸話があるのか?

1.次男が源次郎で長男が源三郎?

真田丸でもあった描写です。昌幸の長男は信幸こと源三郎です。次男は幸村さんこと源次郎です。あれと思いません?なんで長男が源三郎なんだと。それは長男の方が戦で死ぬ確率が高く後継ぎになるかもしれないのが幸村さんかもしれないからって考えがあったからだそうです。鎌倉殿の宗時兄さんがそうでしたね。長男として戦死してしまいましたし。要するに、そうなった時のためにあえて逆にしていたそうです。未来のことまで考えられる所もさすがですね。

2.家康が一生ビビっていた存在

家康が昌幸のことを怖がっているのは分かることでしょう。2回もボコボコにされたわけですし。どから大阪の陣で幸村さんがが大阪城に入ったと聞き昌幸が幸村かと必死に聞いていたそうです。なぜなら、昌幸はその当時いなくなっていたものの家康はその情報を知らなかったからです。相当取り乱していますね。それだけ家康にとって昌幸は脅威的な存在ってことでもありますが。ちなみにこの話には続きがあります。幸村が大阪城に入城した時家康は昌幸じゃなくて良かったと油断してたそうです。ですが、大阪の陣で家康は幸村にボコボコにされましたね。家康はどんな気持ちだったんでしょうね?

難攻不落の上田城

真田と言えば上田城です。徳川とバトルした2回の上田合戦では徳川に圧勝しています。まず第一次上田合戦の頃は城がまだ完成していなかったそうです。また、第二次上田城の戦いで尼ヶ淵というところで徳川軍に多数の死傷者が出ました。それなのになぜそんな城で徳川の大軍を撃退する事ができたのか?

それは昌幸が知恵を絞って築城した、攻めにくく守りやすい城だったからそうです。まず上田城には天守閣がないです。そのため、侮られていました。ですが、天守閣がなくても千曲川の尼ヶ淵という断崖に建てられていて高い防御力を誇っている城でした。また、地形的に家康が攻めるのは東側からだと考えた昌幸は東側の守りに専念しました。具体的には城下町に柵を設けたそうです。ちなみに上田城って昌幸が家康の傘下だった頃に家康の援助を受けながら作った城なんですよ。これは家康からしたら悔しかないでしょうね。

 

まとめ

書き疲れました。昌幸のことを書いてたら草刈正雄が思い出しますね。あの人の演技はすごかったです。きっとあんな感じで戦ってきたのかなと思っています。とりあえず最強ですね。もう言えることはそれくらいです。とにかく真田は強いです!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう