家康独立!清洲同盟と三河平定とは何か?

どうも、りかちゅうです!家康は子供の頃は人質扱いでした。織田家にいる時もあれば今川家にいる時もありました。これは家の問題なのでしょうがないです。家康の実家こと松平家が家康を人質にしないとやっていけない状態でした。ですが、そんな時ある転機が訪れます。それは「桶狭間の戦い」です。桶狭間の戦いで今川義元が敗れてから家康は今川を裏切り、信長と同盟を組みます。まあ、家康からしたらずっと信長の味方だったのでまた味方になれたって感じなんですけどね。その話は後ほど話しますね。そして、家康はこれで人質生活も終わり独立することができました。これは徳川にとっては大きな一歩です。ですので、この記事にて詳しく話したいと思います!

家康と信長は仲が良かった!

「どうする家康」では信長が家康をいじめている?いじっている?ような描写がありますが史実では仲が良かったそうです。実は家康は6歳から8歳のとき、織田家の人質でした(その後、家康は今川の人質となりました)。その際に9歳年上の信長は家康のことを気に入りお菓子をあげたり剣術を教えたそうです。気に入った理由はお互いフィーリングが合ったからだそうです。この状況を見た宣教師のルイス・フロイスは2人の仲は兄弟みたいと言ったそうです。実際に2人とも兄弟のような感情を持っていました。それもあって、家康が8歳の時に離れ離れになってもこの絆は強かったです。だから、桶狭間の戦いの時に信長のスパイとなって今川の情報を流したんです。このように、2人はどんなことがあろうと仲の良い関係性でした。

清洲同盟の流れ

以上が家康と信長の関係性です。一見2人は敵同士かと思いきや実は味方でした。それ故に清洲同盟を結ぶことになります。ですので、その流れについて話しますね!

1.桶狭間の戦い

桶狭間の戦いのオチはもう分かりますよね?完全に信長の勝利です。一般的には夜襲をしたから勝ったと言われていますがそれ以外の要因もあります。まず信長は戦の際に素人の農民を巻き込むことはしませんでした。志願した人しか戦に連れて行きませんでした。そのため、みんなプロです。その時点で軍の質は高いです。ただそれだけではないです。家康の力が勝敗を左右しました。先ほども述べたように家康はスパイです。彼が信長に色々情報を流したおかげで桶狭間で勝つことができました。

2.今川と徳川の対立

桶狭間の戦いで今川は滅びたのかなと思いますよね?違います。実は息子の今川氏真が生きていました。ただ、コイツは横暴な性格で厄介だったそうです。親が偉いと息子は致命的ってあるあるですね。また、家康が今川の同族こと吉良氏を攻撃した時に今川氏真は今川家にとどまっていた家康の仲間たちを殺しました。このように、今川とは対立関係になりました。まあ、家康からしたらこれで信長の味方になれるので都合は良かったのかなと思われます。

3.清洲同盟の締結

今川と対立関係になってしまったことから家康は信長と手を組むことを決意しました。また一緒になれる日が来ましたね。こうして、1562年に家康と信長は信長の居城である清州城にて同盟を組みました。それ故に清洲同盟と言うんです。この同盟は20年も続きました。ただ、今川方の人質になっていた家臣の妻子は殺されてしまいました。じゃあ家康の妻子も殺されたの?それは大丈夫でした。鵜殿長照の子こと氏長と氏次を人質にしたことで取り戻しました。痛手ではありましたがそうするしかありませんでした。

三河一向一揆と三河平定

このように、信長と同盟を組んだことで独立できるチャンスを掴むことができました。また、家康は信長と一緒にいれるようになりました。ですが、まだ、課題がありました。それは三河平定です。三河では一向一揆が起きていたのでそれを解決しないといけませんでした。ですので、その話もしますね。

1.2つのトラブル

実は家康のお父さんこと松平広忠は3つの本願寺派寺院に守護使不入の特権を与えました。名前は本證寺、上宮寺、勝鬘寺で「三河三ヶ寺」と言われていました。この3つの寺は特権を持っていたため勢力を強めていました。この勢力は武士でも手こずっていました。それ故に2つのトラブルが起きます。

1つ目は1562年に西尾城主・酒井正親が法に触れた者を追いかけいた時に本證寺に入ってしまいました。それは仕方なくないと思うかもしれません。ですが、守護使不入の特権を与えられた公領では、犯罪者を追いかける目的で立ち入ることは禁止されています。それ故に酒井正親が犯罪者になりました。2つ目は徳川家康の家臣の一員である菅沼定顕が上宮寺から米を強制的に徴収してしまいました。そのため、本證寺、上宮寺、そして、三河三ヶ寺に属する勝鬘寺は特権を侵害されたと主張しました。また、
本證寺の第十代・空誓は信徒を集め菅沼氏を襲撃しました。

2.三河一向一揆のはじまり

こも2つのトラブルのせいで三河一向一揆は1563年に勃発しました。実は三河には浄土真宗本願寺派の信徒がたくさんいました。徳川家臣の中にも信徒がいたそうです。これではツムツムです。ただ、それだけではありません。松平家の庶流・桜井松平家、大草松平家・三河の守護家吉良家・今川家が家康の勢力を弱めようとどさくさに紛れて岡崎城を攻撃したんです。ダブルパンチですね。

3.和睦と収束

家康は2発の銃弾を受けましたが落城せずになんとかなりました。そして、針崎、土呂の一揆衆と小豆坂・馬頭原で戦い勝利した家康は伯父の水野信元を通じて、和睦をもちかけました。内容は守護使不入の特権を与えるだけではないです。一揆衆の罪を問わない形で一揆が起きる前の状態に戻すと一揆衆にとってはいい話でした。もちろんすんなりと受け入れてくれました。ただ、話に続きがあります。なんと家康は収まったと同時に和睦の内容を破り、浄土真宗本願寺派の寺に改宗を迫り、拒否した寺を取り壊しました。三河では浄土真宗本願寺派を禁教としたことで僧達は追放されることとなりました。

4.三河統一と三河三奉行

家康が三河一向一揆を鎮定した後、今川側であった二連木城主の戸田重貞と牛久保城主の牧野成定などの東三河の諸将が帰順しました。さらに今川方を攻めて城を奪っています。このように、浄土真宗本願寺派以外にも東三河も平定をすることができました。これで三河は統一されました。その後、家康は1565年に奉行を設ける事にしました。奉行に登用されたのは高力清長・本多重次・天野康景の3人です。高力清長は「仏」のように仁成を敷き、本多重次は「鬼」のように軍事に優秀で、天野康景は偏りがなく公平な統治したことから三河三奉行と呼ばれるようになりました。

松平から徳川に

1566年に家康は勅許を得て姓名を「松平」から「徳川」に変えました。なぜなら、実は松平の祖先の姓名は徳川だからです。ですが、徳川親氏という人が本領である上野の世良田を追われ三河に来た時に、徳川親氏は松平郷の領主こと松平信重の婿になったから松平と名乗っていたそうです。だから、徳川に復姓したんです。ただ、この説の証拠資料は薄いため定かではないとは言われています。とは言えども、徳川の姓を名乗れたことは世間的に影響を与えたのは事実ではあります。

まとめ

家康にとっては長い辛抱でしたね。まずは仲の良かった信長とは離れ離れになり敵同士となってしまいました。しかも、人質の身ですからね。自由に何かをすることができませんよ。ですが、桶狭間の戦い以降に信長の味方となるだけでなく独立したことで家の力を強めることができました。10年以上かかったものの大きな進歩です。今後どんな展開になっていくのか楽しみにしています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました!

りかちゅう