家康の過ぎたる武将!本多忠勝とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康の家臣の中でかなり強い人物がいました。20歳になってもいないうちに敵の首を取ったそうです。また、戦には57回も参加したそうですが無傷だったそうです。何者なのか…。ちなみにその人は家康が天下を取るまで(家康よりも早くいなくなりました)ずっといました。そいつの名は本多忠勝です。「真田丸」でもこの人物は登場しました。あの家は家族揃って強かったですよね。懐かしいです。私的には本多忠勝は徳川家の戦担当と言っても過言ではないのかなと思われます。要するに、キーパーソンの中の1人であるということです。ですので、この記事にて彼のことを話したいと思います!

本多忠勝のプロフィール

名前 本多忠勝

生年月日 1548年3月17日

出身地 三河国額田郡蔵前(今の愛知県です)

没年 1610年12月3日(享年63歳)

備考

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑など戦の功績がすごいことから徳川家の中でも目立っていた存在でした。また、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という言い伝えがあるくらいすごい人です。

本多忠勝の人生

以上ご本多忠勝のプロフィールです。では、どんな人生を歩んだのか?今から話したいと思います!まあ、人生といっても戦の功績がメインですけどねwwwwww。

1.初陣は桶狭間の戦い

本多忠勝は1548年に三河国額田郡で本田忠高の長男として生まれました。彼の生い立ちは波瀾万丈です。なんと2歳で父と死別します。そして、それ以降は叔父に保護され教育されたそうです。それから大きくなって初陣の日がが来ました。ちなみに初陣は1560年に起きた桶狭間の戦いの前哨戦と言われる大高城の兵糧入れです。13歳で初陣を飾ったことになります。また、その時に元服したそうです。そして、本多忠勝は1561年の時、家康に従い鳥屋根城攻めに参じています。その時に敵の首を打ち取りました。伝説そのものです。

2.三河一向一揆と旗本抜擢

1563年に西三河で浄土真宗の本願寺門徒が蜂起し、三河一向一揆が起きます。実は家康の家臣の中にも門徒派の人達はいました。それもあって、多くの家臣が門徒方についていました。ですが、本多忠勝は浄土宗に改宗してまで家康に味方をしました。その際に本多忠勝は柵を越えて敵と槍合わせをしたそうです。また、本多忠勝は今川方の吉田城攻めに出陣し、先鋒を務めました。このような功績の影響で1566年に本多忠勝は家康直轄軍団である旗本先手役に抜擢され軍団長となっています。それ以降本多忠勝は家康居城の城下町に居住し精鋭部隊の将として貢献しました。

3.伊賀越えにつきそう

話が長くなるので伊賀越えまでかっ飛ばしますね。本能寺の変で信長は討たれました。本当のことを言うとあれは茶番劇ですけどね。ただ、上洛途中だった徳川は堺で知らせを受けます。その際に家康は動揺しちゃったのか京都にある知恩院へ行き切腹すると言い出します。本多忠勝はそれを許すわけないです。とりあえず、急ぎ三河へ帰るように家康を説得したそうです。その際に無茶振りをしました。伊賀越えと言って一揆の輩を襲われながらも急な道をダッシュで走りました。これは「真田丸」を見れば分かります。

4.小牧・長久手の戦いで褒められる

1584年家康は秀吉と対立します。本多忠勝軍も秀吉包囲網の形成に関わっていたようです。ただ、本多忠勝は小牧・長久手の戦いで留守を任されています。ですが、家康が大軍相手に苦戦している聞きわずか500の軍勢で駆け付けています。その姿を見た秀吉は本多忠勝のことを「東国一の勇士」や「知勇の武士」と賞賛したそうです。それもあって、秀吉は本多忠勝を討つのは禁止したそうです。敵なのに禁止にするって相当ですね。また、織田信雄からは法成寺という刀を賜っています。

5.大多喜城主となる

1590年に小田原征伐に本多忠勝も従軍しています。その際に北条方の岩槻城を攻めて降伏に追い込んでいます。流石の本多忠勝ですね。この功績から上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられ、大多喜城主となりました。10万石の石高は井伊直政の12万石に次いで2番目の石高だそうです。

6.関ヶ原の戦いと晩年

1600年に関ヶ原の戦いが起きました。本多本隊は本多忠勝の嫡男・忠政が率いています。一方、本多忠勝は豊臣恩顧の武将らの監視役であったとも言われ家康に代わって軍艦を務めてもいます。また、福島正則や細川忠興らを率いて竹ヶ鼻城攻めを行い落城させています。それ以外にも活躍はありますが長くなるので割愛します。このような功績から1601年に本多忠勝は伊勢国桑名10万石に移封されました。ただ、一国を領することを望んだものの叶わなかったそうです。

関ヶ原以降の本多忠勝は周りのものに自分の名前を掘っていたそうです。きっと後世に名前を残したかったんでしょうね。ですが、その時手に怪我をしてしまいました。一度も戦で怪我をしていなかったからなのか本多忠勝は「本田忠勝も怪我をするようになっては終わりだな」と言い、1604年にいなくなりました。享年63歳でした。

本多忠勝のエピソード

戦の功績が多いことから本多忠勝には色々なエピソードがあります。ですので、一部だけですが話したいと思います!

1.本多忠勝の槍

本多忠勝の槍は「天下三名槍」の1つとされています。なんとその槍は刃の長さが44cm、柄が約6mほどの大きなものでした。ちなみに、この槍はある日槍の穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったということから「蜻蛉切」と呼ばれるようになったそうです。こんなに強くて大きい槍を使いこなしていた忠勝は戦場では目立つ存在だったのかなと思われます。

2.本多忠勝の剣

本多忠勝が桑名城へ国替えになったある日、息子の忠政と小舟で巡視をしていた時に忠勝は息子に「この櫂で葦を薙いでみろ」と言いました。葦を横に打ち払って倒すってことですね。忠政はそれに応え葦を薙ぎ倒しました。ですが、忠勝は鎌で刈ったかのように葦を切り取ったそうです。要するに、忠勝はたとえ舟を漕ぐ櫂であったとしても剣に変えることができたということです。なかなかの腕前ですね。

3.家康への忠信

忠勝は家康への忠信を忘れたことはありませんでした。秀吉と家康が和睦したときに秀吉から自分の恩と家康の恩、どっちの方が重いのかと本多忠勝に質問したそうです。その際に本多忠勝はこのように言ったそうです。

秀吉の恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であり月日の論には及びがたし

比べものにならないということですね。家康と本多忠勝の間には色々あったかもしれないけど本多忠勝からしたら仕えるならば家康一筋なんだと思います。
まとめ

色々書いてて思ったことですがとりあえず強いですね。それ以外の言葉が思い当たらないくらいに強いです。私的には秀吉とのやりとりが印象に残っています。だって一応敵同士なのにもかかわらず褒められるって相当のことですよ。戦となったら敵を潰さないといけないのに潰さなくていいって言われるって秀吉も圧倒されたんでしょうね(秀吉以外の武将も圧倒していたはずです)。それもあって、自分と家康どっちの方が恩が深いって言ったんでしょうね。きっと秀吉からしたら本多忠勝が欲しいと思ったに違いないです。このように、本多忠勝は最強な戦国武将です。だからこそ、どうする家康での活躍を期待しています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう