徳川VS豊臣!小牧・長久手の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!本能寺の変が終わってから秀吉が力をつけるようになりました。もちろん、それが嫌で対抗した人もいます。柴田勝家がそうですね。ですが、柴田勝家も秀吉に負けてしまいました。もう秀吉の独走ですね。ですが、そうは行きませんでした。それは家康の存在です。家康は秀吉に対抗しました。正式にいうと織田信雄に依頼されたから戦った感じですね。それで、その戦いを小牧・長久手の戦いと言います。この戦いは結末としては和睦という形で終わりました。ですが、実質は家康の方が勝っていたという話は多いです。では、一体どのような戦いだったか?この記事にて話したいと思います!

小牧・長久手の戦いとは何か?

小牧・長久手戦のいとは何かが分からない方もいるのかと思われます。ですので、まずはそこから話したいと思います!

概要

小牧・長久手の戦いは、1584秀吉軍と家康・織田信雄連合軍との間で起こった一連の合戦を指します。本能寺の変の後、信長の後継者として勢力を強めたのが秀吉です。これを見た信長の次男こと織田信雄は秀吉の存在に危機感を覚え信長と同盟関係にあった徳川家康に協力を依頼します。その影響で小牧・長久手戦いが起きました。この戦いは全国各地で繰り広げられ、開戦から終結まで約8カ月かかりました。

場所

小牧・長久手の戦いの中心地は、尾張です。小牧は信雄・家康連合軍が本陣を構えた小牧山城をのことで長久手は秀吉軍と家康軍が直接戦った地を指しています。そのためこの名前になりました。それで、今では激戦地となった長久手には「古戦場公園」が整備されたため散策しながら当時の様子を学べます。長久手市郷土資料室では戦いに関する特別展を開催することもあります。

小牧・長久手の戦いが起きた原因

以上が小牧・長久手の戦いの原因です。ではなんで小牧・長久手の戦いが起きたのか?

1.秀吉の勢力拡大

本能寺の変と山崎の戦いが終わってから織田家の家臣は清須城にて織田家当主を決める話し合いをしました。それを清須会議と呼びます。この話し合いで後継者は信長の次男の信雄派と三男の信孝派に分かれて争いました。そんな中、秀吉は信長の孫にあたる三法師を推します。三法師は当時まだ3歳の幼児です。それでも信長の跡継ぎであった信忠の嫡男である以上は正当な後継者です。そのため織田家の新当主は三法師に決まりました。ただ、三法師は3歳です。そこで、秀吉が代わりとなって動いたため秀吉は力を持つようになりました。さらに秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたことで自らの地盤を固めていきます。

2.織田信雄が家康に頼る

清須会議で秀吉に敗北した織田信雄は尾張と伊賀の領主となります。織田信雄は秀吉に味方し、三法師の後見役として安土に入るなど、秀吉と良好な関係を築いていました。ですが、秀吉は織田信雄を安土城から追い出してしまいます。この仕打ちをされたことで織田信雄は自分の力だけでは秀吉に対抗できないと思い家康を頼ります。

3.内通者を追いやる

15843月に織田信雄は秀吉に内通した疑いのある家老3名を処刑します。この行為を口実に、秀吉は打倒信雄を掲げて出兵します。信雄・家康も挙兵し、小牧・長久手の戦いへと発展していきました。

 

小牧・長久手の戦いの流れ

以上が小牧・長久手の戦いが起きた経緯です。では、戦いの時にどのような流れだったのか?

1.秀吉の奇襲

1584年3月秀吉こ有力武将こと池田恒興と森長可が尾張の犬山城を落とします。家康は犬山城の南方羽黒へ布陣した森長可を八幡林の戦いで破り織田信雄とともに小牧山城に布陣します。森長可の敗戦を聞いた秀吉は自ら大軍を率いて犬山城に入りました。そして、楽田城を本陣として構え家康軍と対峙しました。

4月になり、秀吉は犬山から南東60〜70kmほどの場所にある家康の本拠地こと岡崎城を襲撃するため、密かに2万ほどの大軍を派遣しました。ですが、秀吉の作戦は家康に知られてました。家康はすぐに小牧山城から出陣し犬山城と岡崎城のほぼ中間地点の長久手で秀吉軍と戦うことになります。これが長久手の戦いです。長久手の戦いは家康軍が勝ちました。一方で秀吉軍は池田恒興と森長可の2将を失ってしまいましたそれ以降、しばらくの間、両者はにらみ合うかたちとなります。

2.戦いは各地で展開

尾張以外の地域では、両陣営を支持する武将同士の合戦が展開されます。

関西地方では、3月に反秀吉派の紀州根来衆・雑賀衆らが、秀吉不在の隙をついて、堺・大坂・岸和田城などを攻撃しました。4月上旬には伊勢で、秀吉の弟・羽柴秀長が織田信雄の松ヶ島城を攻略しています。また、讃岐では織田信雄・家康軍に味方した長宗我部元親が秀吉方の十河城を攻略したことで平定しています。

もともとは織田信長の側近だった二人の武将・前田利家(まえだとしいえ)と佐々成政(さっさなりまさ)が、能登(現在の石川県)で対決した「末森城の戦い」も有名です。利家は秀吉側、成政は信雄・家康側として戦い、利家の勝利に終わっています。

3.和睦という形で終わる

長久手の戦いに大敗した秀吉は、家康よりも織田信雄を狙うことにします秀吉は織田信雄の城を奪いました。それもあってなのか織田信雄は家康に断りなく11月に秀吉との和睦に応じました。和睦が成立した以上合戦を続ける理由がありません。そんな形で長く続いた戦いは終わりました。その後、秀吉は家康に従わせることに成功します。

ただ、小牧・長久手の戦いに本当の意味で勝利したのは家康だといわれています。家康は長久手の戦場で数に勝る秀吉軍を相手に巧みに戦いました。また、戦死者の数も、秀吉軍約2,500人、家康軍約550人です。家康の方がダメージが浅いです。また、池田恒興と森長可を討ったことも秀吉に大きなダメージを与える結果となりました。そのため長久手家康の実力は天下に広く知れわたりました。

その後

小牧・長久手の戦いが終わってからその後どうなったのか?まず秀吉はその直後に関白になりました。もう天下人となったと言ってもいいです。また、秀吉と和睦した織田信雄は秀吉によって伊勢北部と伊賀を秀吉に差し出さなければいけなくなってしまいます。これで織田信雄の領土は半分です。ですがそんな時に人生最大のチャンスが訪れます。小田原征伐を終わらせて家康が関東へ領地を変えさせられる時に織田信雄に三河、遠江、信濃など家康の旧領130万石を与えられます。ですが、織田信雄はこれを拒否しました。いい話なのになぜと思いますよね。秀吉は激怒しました。そのため、残りの半分の領土を没収されてしまました。織田信雄は浪人ですね。

とは言えども江戸時代には報われます。なんと織田信雄は領地2万石を家康から与えられました。そのため、織田信雄の子孫は幕末には山形の天童の藩主となっていました。ちなみに、信長の息子のうち大名として幕末を迎えたのは織田信雄です。信雄にはなんとか戦国時代を切り抜けるなにかの魅力があったのかもしれません

まとめ

実はこの戦いも茶番劇でした。だって家康と秀吉は今後の目的は一緒なんですから!あと家康は秀吉のサポート係になりたかったんですよね。でもなんでそんなことをしたのって?秀吉のメンツのためです。秀吉は農民出身なため天下を取ることをよく思わない人はいました。となると、それなりの地位の人が秀吉に頭を下げないと収集がつきません。そこで、家康が頭を下げることによってなんとか収めようとしました。要するに、秀吉のためにあえて戦った感じです。だから、家康が実質勝っても秀吉が上になるオチだと思えばいいです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。