実朝を殺した男!公暁とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!源氏が3代で途絶えるという話は有名ですよね?まあ、これに関しては実朝が子供を作れなかったのが問題ではあります。あの時代に子供が産めないのは跡継ぎ問題があるからこそ致命的です。確かに、養子という手段がありましたがそれもうまく出来ませんでした。それには理由があります。それは実朝がとある方によって暗殺されてしまったからです。その名前は公暁です。彼は2代目鎌倉将軍の息子です。暗殺した理由は色々ありますが少なくとも跡継ぎは狙っていたと思われます。ただ、彼は実朝を暗殺してから殺されました。では、一体どういう人物だったのか?この記事にて話したいと思います!

公暁のプロフィール

まずは公暁のプロフィールから書きますね。公暁の肖像画がないので鎌倉殿での写真を使います。

名前 公暁(こうぎょうと読みます)

生年月日 1200年

出身地 鎌倉

死亡日 1219年2月13日

補足

頼家の次男または三男です。あの一幡様と母親は同じです。そして、実朝を暗殺した犯人です。ちなみに幼少期の頃の乳母夫は裏切りマスターこと平六でした。

公暁の人生

以上が公暁のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?今から話したいと思います!

1.頼家の子として産まれる

公暁は頼家の息子として生まれました。幼名は善哉と言います。ちなみに公暁の母は吾妻鏡では一幡様と同じ若狭局と言われています。一方で「源氏系図」によれば三浦義澄の娘という説もあります。どっちなんだよと思いますが少なくとも頼家がお父さんであるということは間違いです。

2.比企の滅亡と頼家の殺害

1203年に頼家が重病に倒れ、危篤状態に陥りました。かなり酷くは2カ月以上続き、助かる可能性が低いという空気が鎌倉に流れました。そこでもう3代目の将軍を誰にするかを考えないといけませんでした。そんな時、幕府の比企と北条衝突します。理由は比企は一幡様を推していたのに北条は一幡様の弟こと千幅(のちの実朝)を推すと意見が異なったからです。結果としては北条が勝ち頼家が後継者と定めた一幡や比企家を滅ぼしました。

こんな結果となれば不謹慎ですがもし頼家がいなくなれば何とかなります。ですが、頼家は息を吹き返してしまいます。そこで、頼家を強引に将軍職から引きずり降ろし、伊豆に流しました。そして、翌年に殺害されました。ただ、公暁は乳母夫である平六こと三浦義村に保護され助命されたものの、後継ぎの権利は剥奪され鶴岡八幡宮の僧とならざるえませんでした。

3.京都の修行

1206年6月に7歳になった公暁は政子の屋敷に移り着袴の儀式をおこない、3代将軍になった実朝の猶子となりました。猶子とは財産相続権を持たない子のことを指します。そして、1211年9月に12歳で鶴岡八幡宮寺別当定暁の下で出家しました。ただ、受戒を受けるために上洛し、園城寺にて公胤の門弟として入室しました。その際に貞暁の授法の弟子となり頼暁という戒名を受けてから、公胤の弟子になって公暁と戒名を与えられました。

4.鶴岡八幡宮寺の別当となる

1217年6月に公暁は18歳で鎌倉に戻り、政子の意向で鶴岡八幡宮寺の別当に就任します。この頃から公暁の行動はおかしかったです。寺の別当なのに髪を剃ろうともせず、長いままにしてい田そうです。きっと僧侶である事を拒否し武士に戻れるように準備していたのかなと思われます。

5.実朝を暗殺する

1219年1月27日。その日は雪が60cmも降っているのに実朝が右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮に参詣します。その際に吾妻鏡には儀式を済ませた夜に実朝が神宮を退出しようとしたら頭巾を被った公暁が襲い掛かったそうです。詳細としては頼家は実朝が衣の裾を伸ばしている所を踏んづけて頼家を転倒させ「親の仇はかく討つぞ」と叫んで頭に斬りつけ首を落とたそうです。ただ、それだけではではないです。なんと松明を照らして太刀持ちをしていた源仲章を義時と間違えて斬り倒しました。

この件は公暁の単独犯ではなく源氏の血筋を滅ぼすために誰かが仕組んだという説もあります。三浦、北条が怪しいですね。

6.三浦義村に騙し討ちされる

鶴岡八幡宮から姿を消した公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の備中阿闍梨宅に帰還すると、食事の間も実朝の首を離さず平六に使いを出しています。そして、なんと公暁は「我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と告げました。

連絡を受けた平六は「迎えの使者を送ります」という嘘を言い、義時にこの事を告げます。義時は公暁を誅殺することを決意しました。義村は獰猛な公暁を討つために長尾定景を差し向けました。愚管抄によると公暁は平六の迎えが来ないのを怪しみました。そこで、雪の中を鶴岡山の斜面を登って平六邸に向かいます。そんな時、途中で長尾の追手と遭遇。とりあえず追手を斬りながら進み平六宅の板塀までたどり着きました。ですが、公暁は塀を乗り越えようと背中を見せた所で斬られ死にました。20歳でした。

流石の裏切りマスター

思うんですが平六って公暁の乳母夫でもありますよね。となると、公暁を立てないといけない立場であるのは紛れもない事実です。それなのに、あっさりと裏切りましたね。しかも、鎌倉殿では散々将軍の座を狙おうとか煽っていたのに殺すように仕向けましたからね。おそらく、義時の味方だからという感情以上に公暁についても自分は得しないと分かっていたから裏切ったのかと思われます。個人的には煽ってから裏切るという点がなかなかうざいなと思います。まあ、そんな所も好きなんですけどね。

まとめ

源氏って北条によって潰されたような家でもあります。それもそうです。他の記事でも書きましたが北条なんて源氏のことはそれほどなんです。源氏を利用して権力をつけようとしただけなんです。源氏のことが好きだから源平合戦で源氏の味方をしたわけではありません。源氏の血筋が消えたことが答えです。あと、もし北条が源氏を立てるという考えがあったら鎌倉殿で実朝と義時が対立するわけではないです。そう考えると、鎌倉時代って北条のためのものと言っても過言ではありません。これはもう鎌倉殿を見ている人ならば分かりますよね。要するに、公暁の事件を機に鎌倉は北条のものとなったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう