伏見城で最期を迎えた男!鳥居元忠とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!関ヶ原の戦いの前に伏見城が攻められたのはご存知ですかね。理由は家康が上杉景勝を攻めるという理由で大阪を離れました。それを知った三成は(三成は色々あって佐和山城で蟄居状態でしたが)伏見城を攻めました。その時に伏見城を守った男がいます。その名は鳥居元忠です。兵数的には西軍の方が多かったため元忠は負けて討死しました。それでも13日間も粘っていました。それは相当強いことでもありますね。しかも、彼はある戦で左足を失っています。それでも死ぬまで戦っていました。何者なのと思いますよね?ですので、この記事にて話したいと思います!

鳥居元忠のプロフィール

鳥居元忠と言ってもどんな人なのか分からない人が大半かと思われます。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 鳥居元忠

生年月日 1539年

出身地 尾張国

没年 1600年9月8日(享年62歳)

鳥居元忠の人生

以上が元忠のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

鳥居元忠は1539年に尾張にて鳥居忠吉の三男として生まれました。鳥居忠吉は家康の祖父こと松平清康に仕えていた家臣でした。また、武士でありながら商人としての活動をしていたため家康が今川の人質となっている間も食糧や衣類を送るなどの支援をしていました。詳しいことはこちらを見てください!

家康独立の支援をした!鳥居忠吉とはどんな人?

このような生い立ちであることから元忠は家康が今川氏の人質となっていたころから仕え始めています。その際に酒井忠次や石川数正と同じように今川のもとにいました。

2.徳川の独立と家督を継ぐ

1560年5月19日に桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれます。そこで、家康は空き城になっていた岡崎城へ戻り今川からの独立を果たしました。もちろん今川氏真に許可なんて得ていないんですけどね。その後は姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどの戦いに参加しました。また、1572年に鳥居忠吉が亡くなりました。本来なら長男が後を継ぎます。ですが、長男の鳥居忠宗は1547年に亡くなっていました。また、次男の本翁意伯は出家していました。そのため元忠が跡を継ぐこととなりました。

3.諏訪原城攻めで負傷

三方ヶ原の戦いの後に諏訪原城攻めをすることになりました。その際に元忠は武田のスパイのような活動を勤めますがそこで鉄砲で足を撃たれたのです。そのせいで元忠は左足が不自由となってしまいます。ですが、元忠の忠義心と家康からの信頼は揺らぐことがありませんでした。そのため、この後も元忠は家康の側近くに仕え続けるのです。

4.谷村城主

左足が不自由になったとしても元忠は戦い続けます。1575年の長篠の戦いでは石川数正とともに馬防柵の設置を行いました。また、1581年には高天神城の戦いに出陣しています。さらに、本能寺の変で信長が討たれた後に家康は甲斐国を攻め取ろうとしますその際に同じように甲斐国を狙っていた北条氏政・氏直軍に攻められたため家康は背後を襲われますが。ですが、元忠が北条軍1万余りをわずか2千の兵で退け、300余りの首級を挙げています。この戦功によって元忠は甲斐国都留郡を拝領し谷村城主となりました。

5.伏見の別れ

秀吉がいなくなってから家康と三成が対立しました。その際に家康は上杉景勝を討つために大軍を率いて東北へ向かいます。これは三成を誘い出すための口実です。となると、三成に背後を突かれないために食い止める兵が必要です。その際に危険な最前線となるのがが伏見城でした。家康は伏見城に元忠を置きました。元忠の役割は三成をおびき寄せ出来る限り足止めをさせることです。とは言っても兵数は少ないんですけどね。兵を残すことが重要ですからね。一方で家康は大阪を出立し会津へ向かいます。ですが家康は一旦6月16日元忠に会うために伏見城に寄っています。その時元忠はわずかな兵数だけど討ち死に覚悟でも頑張ると家康に伝えたそうです。

7.伏見城で最期を遂げる

家康が大坂を発ち東へ向かうと三成は予想通り挙兵しました。西軍は約4万です。一方、元忠は1800人余りの兵。もう勝ち目もありません。ですが、元忠たちはなんと13日間も粘ったのです。とは言えども、元忠は雑賀衆の長雑賀孫市との一騎打ちに敗れ討死しました。享年62歳でした。

伏見城の天井には?

伏見城における激戦は城内のあちこちに残っていた血染めの畳や廊下が物語っているそうです。理由は家康は彼らの忠義を称えるために江戸城の伏見櫓の天井に血染めの畳を設置させたからです。その影響で伏見城にあった血染めの床板は武将たちの供養のため京都市や近郊の寺院の天井に用いられています。そのため、血天井として知られています。ちなみに、京都市とその近郊で血天井が見られる寺院は5つあるそうです。

鳥居元忠の性格

堅物な性格だったそうです。根拠としては官位を授かる時の話です。

秀吉が天下を取った時に徳川家の家臣に官位が授けられることになります。もちろん、元忠にも官位が授けられるはずです。ですが、このようなことを言って固辞しました。

私は不才でありますので、二君に尽くすべき道をわきまえておりません。しかも、三河の田舎武士、万事粗忽ですので、殿下の前でどんな粗相をしでかすかわかりません

 

こんな形で拒否する人いるんですね。また、秀吉は元忠の嫡子こと鳥居忠政を秀吉の近臣である滝川雄利の養子にするように勧めたこともあります。これは間接的に元忠を秀吉の家臣にしようとするという企みです。ですが、元忠は当然のように拒否しました。もちろん、それで終わりではありません。小田原征伐の時も元忠の戦功を称えて感状を与えようとしても私は豊臣家の家臣ではないから感状をいただく理由がないと断ったと言います。これは家康に一途ということが物語られますね。そのため、家康と元忠の絆はどんどんと固くなったそうです。

ある逸話

長篠の戦いの後におもしろい逸話が残っています。

家康が武田の名将・馬場信房の娘を差し出すようにと元忠に命じています。ですが、元忠はどこを探しても見つからず行方知れずになっていると報告しました。ですが、他の人がその娘は元忠が匿っていると報告しました。家康は怒らず仕方ない奴と思いと苦笑いしたそうです。その後、元忠はちゃっかりこの娘を側室にしていたのです。そしてその娘と三男一女をもうけています。

 

まとめ

最期が印象的でしたね。それしか言いようがないです。1800しかいない兵で13日保てる能力ってどうやったら身につくんですかね?私にはできません。あと堅物な性格には笑っちゃいました。そんな堅物にならなくてもと思ってしまいましたね。まあ、これを見てもマイナーであってもすごい人であることは分かりました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう