時政の嫡男!北条宗時とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!鎌倉幕府で源氏が滅んだ後、北条家による執権政治が始まりました。その初代執権が北条時政です。そして、二代目執権が北条義時です。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役ですね。まあ、史実としては間違いないです。ですが、忘れてはいけない存在がいます。それは北条義時のお兄さんこと北条宗時です。本来ならばその方が嫡男で後を継ぐ予定だったんです。ですが、現実にはそうはいきませんでした。なぜなら、北条宗時は石橋山の戦いで戦死してしまったからです。悲しいエンドですがそうなんです。では、彼はどのような人生を歩んでいたのか?この記事にて話したいと思います!

北条宗時のプロフィール

お決まりの幕切れですがプロフィールから始めますね!

※肖像画がなかったので「鎌倉殿の13人」で北条宗時を演じた片岡愛之助の写真を載せますね。真田丸では大谷役でしたね。

名前 北条宗時

生年月日 不明

出身地 伊豆国←北条なので常識ですね

没年 1180年9月14日

個人的な推測ですが20代でいなくなったような気がします。

通称 三郎

 

北条宗時の人生

北条宗時のデータが少なくてここまでしか書けないです。なんかすいません。では、彼はどのような人生だったのか?

1.北条時政の嫡男として生まれる

北条宗時は平安時代の終わりからの武将で伊豆国の豪族こと北条時政の嫡男として生まれました。ちなみにプロフィールを見れば分かるかと思いますが生年月日は不明です。また、北条宗時のお母さんも不明です。ただ、北条時政の最初の正室である伊東祐親の娘と推定されています。ちなみに、幼名は北条若王丸で兄弟姉妹には、北条政子、北条義時、阿波局、北条時房などがいます。

2.源頼朝を味方する

実は伊豆国には源頼朝が流人としていました。となると、北条家も伊東家も頼朝を監視するという仕事がありました。ですが、北条宗時の北条政子が頼朝と恋愛して結婚したことから北条家は頼朝の味方になることにしました。何度も言いますが伊東家とは敵になります。親族が同じ気持ちであるとは限らないです。

3.石橋山の戦いに出陣!

頼朝が平家打倒のためのファースト戦は石橋山の戦いです。流れとしては以仁王の令旨が頼朝の元に届きました。だからってその時はすぐに出陣はしませんでした。以仁王も敗れましたし今となってはその選択は良かったのかもしれません。ですが、頼朝まで狙っているみたいな噂が流れたことで出陣しました。この噂は嘘で本当は以仁王の令旨に乗っかった残党を狙っていたそうです。でも、早とちりな噂の影響で出陣してしまったものはしょうがないです。

※石橋山の戦いについてはこちらの記事を見てください!

頼朝が動く!石橋山の戦いとは何か?

4.石橋山の戦いにて戦死

石橋山の戦いの結果は源氏の負けです。理由は援軍がなかなか来なかったからです。ですので、敗走するしかなかったです。その際に北条家と頼朝は別行動をとりました。まず、北条時政と北条義時は箱根湯坂を経て甲斐国に逃げました。甲斐国とは今でいう山梨県のことです。一方で北条宗時は土肥から桑原に降りました。そして、伊豆・平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経由して、早河の辺りに至りました。ですが、平氏方の伊東祐親勢に包囲され討ち死にしました。また、同じルートで逃げていた 狩野茂光は、負傷して歩けないだけでなく肥満のため馬に乗れない状況でした。これでは逃げられません。それ故に函南で自刃したそうです。

推定としては北条宗時は20代でいなくなった気がします。弟の北条義時がその時18歳だったそうなので。そう考えるとあっという間な人生でしたね。

誰に殺されたの?

北条宗時は石橋山の戦いの際に小平井久重という方に殺されました。読み方はこひらいのひさしげです。また、紀六久重と言われることもあります。誰だよと思いますよね?ですので、その人のことも軽く話したいと思います。まあ、この方もそんなにデータはないので軽くしか話せません。

1.うろちょろする小平井久重

小平井久重は、地元・平井郷の名主で、伊東祐親の郎党にも加わっていたそうです。それはそうですよね。北条と伊東はこの時は敵同士ですから。それで、この方北条宗時を殺してからも源氏の周りをうろちょろしてたんですよね。源氏目線だとなんかしつこいなと思たことでしょう。

それで、どういう感じにうろちょろしていたのか?石橋山の戦いで負けた後源頼朝が千葉に逃れました。そして、勢力を盛り返して鎌倉を制圧しました。その時です。なんと小平井久重はそこに姿をくらましていたそうです。どれだけ執念があるんだか。まだ功績を出したいんですかね?それ故に源頼朝は小平井久重を捕まえるために捜索させたようです。捜索した結果、1181年1月6日に相模国蓑毛(今の神奈川県秦野市の山の中)にて、工藤景光に捕らえられ北条時政に引き渡しました。

2.逮捕される小平井久重

小平井久重の身柄は、侍所別当和田義盛に預けられると、北條宗時殺害を認めました。それ故に逮捕された約3ヶ月後、腰越浜にて処刑となりました。北条宗時の件がやっと晴れましたね。にしても、何度も言いますが本当にこいつはうろちょろマンですね。

個人的な見解

ちょっと目線を変えますね。誰目線かと言いますと「鎌倉殿の13人」の主役こと北条義時です。お分かりかと思いますが北条義時は北条宗時の弟です。北条義時は嫡男の立場ではないです。それもあって出世しようやら這いあがろうなどギラギラした心は少なかったと思われます。なぜなら、彼は次男故に跡継ぎ役みたいなポジションではないからです。やはり、後継ぎは長男が主流です。今もそう言った名残はありますけどね。

ですが、北条宗時は石橋山の戦いでいなくなりました。となると、次は北条義時が跡継ぎのポジションになります。それ故に、出世する気持ちなどは強くなったのかなと思われます。また、この死の悔しさや悲しさから色々這い上がって行くのかなと思われます。

まとめ

これは悲しい結末ですね。というか、殺した奴もなかなか執念深くてうざいなと思います。まだマイナーな奴だけいいですけどね。メジャーな人だと余計に腹立ちます。まあ、そんなことはさて置き、この犠牲の影響で源氏側もやり返そうとはなったかと思われます。まあ、北条宗時討った奴を逮捕したからこそ達成はしましたけどね。ただ、もし北条宗時が生きていたらどんな感じだったのかは気になる点ではあります。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう