頼朝が動く!石橋山の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!そんなの常識とも言える内容ではありますが平家が滅んでから源頼朝は鎌倉幕府を開きました。だからって、そんな簡単に鎌倉幕府が作れたわけではないです。出世するには平家を倒さないといけないからこそ色々ありました。それで、最初の危機とも言えるのが石橋山の戦いです。これは流罪だった頼朝にとっては初の挙兵です(平家を倒すための挙兵が初ということです)。結果を初めに言いますが失敗に終わりました。やはり、平家の力は強かったのは間違いないです。ですが、これを機に勢いはつきました。ということで、この記事にて石橋山の戦いとは何かを話したいと思います!

石橋山の戦いとは何か?

石橋山の戦いは神奈川県にある石橋山で起きたからそのような名前になりました。それだけじゃどんな戦いだったか分からないよって?もちろん、今から説明しますね。

石橋山の戦いとは、治承・寿永の乱という6年間にわたる大規模ないくつかの内乱の1つです。この6年で源氏と平家が戦いまくる感じですね。それで、先ほども述べたように石橋山の戦いは1180年に今の神奈川県でもある相摸国で起こった源頼朝と平家側の大庭景親達との戦いのことです。

頼朝は後白河天皇の子である以仁王の令旨によって挙兵しました。初めのうちは山木館を襲撃することに成功しました。ですが、残念なことに援軍が間に合わなかったため、平家の大軍に抵抗する力はなく敗走せざる得なくなりました。ただ、その後源氏だけではなく、在庁官人、平氏に不満を持つ豪族などが全国各地で次々と挙兵し長い戦いが続くことになります。頼朝目線にはなりますが負けたとは言えども今後には繋がる戦となって良かったですね。

挙兵に至るまでの経緯

実は以仁王の令旨をもらってからすぐには挙兵はしませんでした。以仁王の令旨はこちらの記事を見てください!

源氏が挙兵したきっかけ!以仁王の令旨とは

ただ、色々な経緯があり挙兵をしました。ですので、その経緯を話しますね!

1.頼朝には支援者が多かった?

北条義時のおじいちゃんでもある伊東祐親に監視され何もできない頼朝です。とは言えども、流罪人の身分でありながら頼朝には支援者が数多く存在しました。

なぜならば、頼朝は後三年の役という戦役で名声を馳せた源義家の子孫だからです。皇族に繋がる清和源氏の血統とその名声により源義家は関東一帯ではかなり有名な存在でした。そして、源頼朝の父である源義朝も源氏の棟梁として関東一帯を支配した強者です。ですが、平治の乱で負けてしまいいなくなりました。それ故に頼朝は伊豆に流されたんです。要するに、こんな偉大な人達の子孫だから頼朝への支援者は多かったということです。それもあって、平家によく思われていない関東地方の人々にとって頼朝は精神的支柱となりうる存在でした。

2.北条家の支え

実は頼朝には北条義時のお父さんこと北条時政が頼朝を支援していました。理由は北条政子が頼朝と結婚したからです。たしかに北条時政は平家と結婚してほしいと思っていたから反対していました。ですが、政子と頼朝は強引に結婚したことから平家を裏切り頼朝の味方になりました。となると親族関係でもある伊藤祐親と考えが違うじゃんって?昔の時代はそういうことはあると思ってください。

3.山木兼隆を倒す

以仁王の令旨を受け取った頼朝はすぐには動かず様子見状態でした。ですが、平家が以仁王の令旨を受け取った源氏らを攻めにやってくるという噂の影響で頼朝も立ち上がることを決意しました。

その際に頼朝はまず伊豆国の目代こと山木兼隆を倒す必要がありました。目代とは有力者の所領を現地管理する人のことです。もちろん、ほとんどの所領は平家が支配していることから山木兼隆も平家側の人間です。昔の伊豆国は源氏でありながら平氏からの信頼厚かった源頼政の所領だったんですけどね。ですが、源頼政が戦死してからは平家の所領となり目代も平家側の人間になりました。

なかなかツムツムな話ですね。ですが、山木兼隆を快く思わない人もいました。そこで、頼朝は協力してくれそうな人にしれっと協力依頼をします。そして、8月17日頼朝は協力者と共に謀反を起こし山木兼隆を撃ち殺しました。それによって遂に平家と戦う準備が出来ました。

石橋山の戦いの流れ

各地の源氏を狙っているという情報が流れたことによって挙兵した頼朝(平家側は源頼政の残党を狙っていただけで加担してない頼朝は対象ではないです。ですが、早とちりな情報が流れたのせいで挙兵しました)。果たしてどのような戦いだったのか?

1.三浦一族と合流する計画

山木兼隆の襲撃に成功し伊豆を制圧した頼朝は、8月20日に三浦一族と合流するために相摸国土肥郷へ向かいます。ですが、頼朝は頼朝のわずかな兵しかいませんでした。300騎くらいですかね?一方平家の大庭景親率いる迎撃軍は3000騎に及ぶ大軍でした。そして、8月23日にわずか300騎の頼朝軍は石橋山に布陣しますが、頼りにしていた三浦一族は大雨により川が増水したため足止めされ合流が遅れます。

2.包囲される

そんな風に手こずっていることから三浦氏と頼朝を合流させてはならないと強く思う平家がが源頼朝を包囲します。それによって頼朝と平家が石橋山で交えました。これが石橋山の戦いです。もちろん、大軍の平家軍に包囲されてしまった頼朝は為す術をなくし玉砕しまし、散り散りになって敗走します。天候の影響はデカいですね。

3.梶原景時と助け

石橋山の戦いでの敗北は頼朝にとってはツムツムです。なぜならば、残党狩りをする平家がいるからです。なんとかして逃げ隠れようと頼朝は洞窟に隠れます。とは言えどもあっけなく発見されました。それ故に、味方共々自害しようと決心します。ですが、現実は自害しなくて済みました。その当時、洞窟に入り込んできたのは梶原景時という人物でした。なんと彼は自害しようとする頼朝達がその洞窟にいる事実を言わないという形で助けました。なんでそんなことをしたのか?梶原景時は平家側で戦わざるをえないけど内心は源氏側の味方となりたいと考えていたからだそうです。これによって頼朝は助かりました。そして、頼朝は海を渡りひとまず安房国(房総半島の先っちょあたり)に避難しました。

その後の流れ

豪雨のせいで到着が遅れていた三浦一族は頼朝の敗戦を知り引き返すことになりますが、8月24日に平氏勢力の畠山重忠と遭遇します。一旦は和平となりかけますが結局、双方ぶつかり合い合戦となりました。もちろん、停戦しましたけどね。でも、それで終わりだはないんです。8月26日に畠山重忠の軍勢が加勢とともに三浦一族の本拠地でもある衣笠城を攻撃します。三浦一族は消耗していたため衣笠城を諦めて頼朝軍と合流するために安房国へ向かうこととなりました。

合流した後は千葉氏、上総氏といった房総半島の大きな勢力を味方につけたことで、わずか1ヶ月のうちに数万騎の大軍として再び兵を挙げました。

まとめ

この記事を書いてて思うこととしては梶原景時が助けてくれなかったら頼朝は出世せずに終わっていた可能性はなくもないなということです。残党狩り=殺されるということでもありますからね。そう考えると運が良いなと思います。また、どんなに平家が栄えていようとも源氏のファンはいるということを思い知りました。だからこそ、今後どうなっていくのかに関しては要チェックしたいと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう