秀吉のお母さん!大政所こと仲とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康のお母さんは於大の方です。於大の方の存在を知ったのはどうする家康がきっかけなんですけどね。では秀吉のお母さんはご存知ですか?大河ドラマにはちょいちょい出ているので大河ドラマを見ている人ならば分かるかと思われます。もういいから教えろって?仲こと大政所です。実は彼女なんですがかつては貧しい生活をしていました。そうじゃなきゃ秀吉が農民出身って話にはなりませんからね。ですが、信長とは繋がりのあった人だから秀吉は信長と繋がり出世したのかなと思われます。では彼女は一体どんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

大政所のプロフィール

大政所は大河ドラマにもちょいちょい出てきます。ですが、そこまで有名ではないです。ですので、まずは大政所のプロフィールから見ていきましょう!

名前 仲(大政所と言われることが多いです)

生年月日 1516年

出身地 尾張国

没年 1592年8月29日

大政所の人生

以上が大政所のプロフィールです。では彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

大政所は尾張国愛知郡御器所村こと現在の名古屋市昭和区に生まれたといわれています。身分が低かったので家族関係などもはっきりしていません。ですが、妹か従妹が清正さんのお母さんとされています。それだからなのか秀吉が清正を重宝したのかもしれませんね。

2.秀吉の誕生と夫との死別

大政所は織田家の足軽または農民として働いていたとも言われる木下弥右衛門のもとに嫁ぎました。それもあってなのか秀吉は信長と繋がることができたのかもしれませんね。そして、1534年に豊臣秀次のお母さんこと日秀尼を1537年には秀吉を生みました。貧しいながらも幸せに過ごしていたものの、1543年に木下弥右衛門が亡くなってしまったのです。

3.竹阿弥と再婚

その後、大政所は織田家に仕えていた竹阿弥と再婚することとなります。竹阿弥の出生についての詳細は記録は残されていません。戦場で負傷した木下弥右衛門が出家し竹阿弥と名前を変えたとも言われていたり、織田信秀の同朋衆であったと言われていたりしますが詳細は不明です。また、大政所との出会いなどについても、明らかにはされていません。ただ、竹阿弥と大政所の間には豊臣秀長と朝日姫を授かったと言われています。

4.家康の人質となる

秀吉が大坂城を築くと大政所はそちらへ移りました。また、秀吉の関白就任と同時に大政所の号と女性で一番高い位こと従一位を与えられています。ですが、秀吉と一緒に生活をする時間は短かったです。理由は秀吉と家康の関係を柔和させるために秀吉が朝日姫だけでなく大政所をも家康の人質として送り込んだからです。ただ、大政所は約1ヵ月の人質生活を終え大坂城へと戻りました。ですが、大政所はもともと体調を崩しやすい人でした。そのため、大阪城に戻ってからはしばしば病気がちになってしまいました。

5.朝日姫の死と晩年

朝日姫が1590年47歳で亡くなりました。このときにはまだ、大政所は生きていました。ですが、娘が先に亡くなってしまったため気落ちをしてしまったそうです。そのため、大政所は何度も病気と闘う生活を続けることとなり1592年にいなくなりました。

 

秀吉に自分の墓を作って欲しいと言う

朝日姫が亡くなったことで大政所の心情は複雑なりさらなる体調不良を訴えるようになったのです。それもあって、自分の身に危険が迫っていると感じたのかもしれません。そこで、大政所は秀吉に自分の墓を作って欲しいと願い出てました。秀吉は母親のために土地を探し大政所専用のお寺の建築を始めました。このお寺は1590年8月には完成しました。ですが、そのときには大政所の体調も良くなっており、お墓を準備する必要がなくなったのです。それを見た秀吉は大変喜んだそうです。

まとめ

存在感ありますよね。大河ドラマでも。ドラマでは秀吉が天下人になってほしく無かったみたいな考えがありますよね。貧乏人から出世は戸惑いはあったのかなと。気持ちはわからなくもないですけどね。元は庶民だったわけですし。ただ、ここまで秀吉が成長したのは大政所のおかげてはあると思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう