家康の初めての側室!西郡局とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康にはたくさんの側室がいました。まあ、秀吉ほどではないんですけどねwwwww。ちなみに私は阿茶局が推しです。あの方は利口でしごできですからね。家康が最も寵愛した女性ですしね。まあ、そんなことはさておき、家康の初めての側室はご存知ですか?きっと知らない人が多いかと思われます。その名は西郡局です。マイナーではありますが家康と一番長く一緒にいた側室です。時系列でいうならば築山殿の次の奥さんと言えばいいです(築山殿は色々あって殺されてしまいました。話は長くなるのでそれまでにしておきます)。では一体どんな人か?今から話したいと思います!

西郡局のプロフィール

データは少ないですが西郡局のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 西郡局(にしのこおりのつぼね)

生年月日 1548

出身地 三河国

没年 1606619

補足

先ほども述べたように家康の初めての側室です。柏原鵜殿家の家臣・加藤義広の娘として誕生しました。ですが、色々あって鵜殿長忠はの養子となります。

西郡局の人生

以上が西郡局のプロフィールです。ではどんな人生を歩んだのか?

1.西郡局生まれる

西郡局は1548年生まれで三河国宝飯郡(今でいう愛知県蒲郡市)を拠点とする柏原鵜殿家の家臣・加藤義広の娘として誕生しました。鵜殿家は今家に仕えていました。ですが、1560年に勃発した桶狭間の戦いで今川義元が討たれた時に状況が変わりました。それは上郷鵜殿家のみが今川氏に引き続き仕えたものの、柏原鵜殿家を含む庶家は家康に仕えました。ただ、今川義元の跡を継いだ今川氏真には求心力がなかったのか今川家臣は次々と離反していました。桶狭間の打撃がデカすぎたのかもしれません。

2.氏真との交渉のために人質交換

家康は桶狭間の戦いで信長が勝ってから家康は独立し信長と清洲同盟を組みました。ただ、先ほども述べたように上郷鵜殿家の鵜殿長照は引き続き今川勢となりました。それに対して1562年に家康は三河統一のために松平清善らと上ノ郷城を攻撃しました。結果は鵜殿長照は討ち死し、鵜殿長照の子・鵜殿氏長鵜殿氏次は捕らえました。ただ、鵜殿氏長鵜殿氏次は殺していません。今川氏真の人質となっていた築山殿、松平信康亀姫の代わりに今川氏真の人質となりました。要するに人質交換をしたということです。

3.家康の側室になり次女を産む

これで、上郷鵜殿家との関係は解決しました。ただ、柏原鵜殿家が今川氏真に寝返ることを恐れた家康は柏原鵜殿家から側室を迎え結び付きを強めることにしました。その際に鵜殿長忠は加藤義広から西郡局を養子に迎え家康の側室になりました。これは西郡局は人質として家康の元へ送られたということでもあります。とは言えども家康からは寵愛を受けるようになりました。その証拠として1565年に西郡局は徳川家康の次女・督姫を産んでいます。ちなみに、督姫は小田原城主の北条氏直の正室となりますが小田原合戦先立たれてしまいました。ですので、播磨姫路藩初代藩主となる池田輝政に再嫁しています。

4.晩年

督姫の他に子どもを授からなかったため、西郡局の記録は少ないです。女性ってそういうものなんです。だた、1606年に伏見城で亡くなったことはわかっています。きっと、平和な暮らしはしていたかと思われます。

一番長く家康と関わっていた女性

家康の初めての奥さんは築山殿です。それは紛れもない事実です。ですが、築山殿はスパイ行為をしたという疑いをかけられて(本当かどうかは明確ではないですが)殺されてしまいます。となると、家康と長くいた女性は西郡局となります。となれば、家康のことに関しては色々わかっているかと思われます。

まとめ

家康に側室がたくさんいたのは知っていました。ただ、だれがどうなのかは阿茶局しかわかりませんでした。阿茶局は戦場に出向くなどしているから情報は多いんでしょうね。他の人だと探すのが難しいはずです。西郡局もそうでした。ただ、人質交換の時が影響しているとは思ってもなかったです。まあ、思うこととしてはそれくらいですかね。情報がないと深掘りできないのが辛いですが。だからこそ、「どうする家康」ではどんな女性なのかは気になります。以上です!最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

りかちゅう