長篠城を守った!奥平信昌とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!長篠の戦いってあっけなく武田が負けたってイメージがあるかと思われます。教科書なんて色々省略していますからね。実はあっけなく負けたわけではないです。前半戦は武田の方が強かったです。そのため、家康の重用していたある人物が武田軍に包囲されてしまいました。その名は奥平信昌です。彼はその時自分の城こと長篠城にいたんですよ。その際に包囲されてしまいました。ちなみに長篠の戦いの名前の由来はそこから来ています。ですが、織田からの援軍が来てなんとかなりました。それで、奥平信昌はこの出来事の影響で名前が上がったそうです(教科書には出ませんけどね)。では一体、彼はどんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

奥平信昌のプロフィール

奥平信昌のことなんて大半ん人が知らないかと思われます。ですので、まずは彼のプロフィールから見たいと思います!

名前 奥平信昌(別称は奥平貞昌です)

どうする家康では鈴木迅がやりましたね。ごめんね青春の3択の昭島を思い出します←。

生年月日 1555

出身地 三河国

幼名 九八郎

没年 1615年(享年61歳)

備考

一度は家康のことを裏切りながらも家康の家臣として仕えました。また、彼は長篠の戦いなどで活躍したことで知られています。そして、江戸時代になって奥平家は豊後中津藩の藩主となりました。

奥平信昌の人生

以上がプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

奥平信昌は1555年に奥三河・作手の有力国人であった奥平定能の長男として生まれます。ちなみに、母は牧野成種の娘です。家庭状況は大変でした。奥平という家は奥三河という今川・武田・徳川などの大勢力に囲まれていた所にいたため緩衝地帯となっていました。そのためその都度有力な状況にある勢力に与することで家を保っている状態でした。ですので、奥平家は1556年に織田家、その半年後に今川家1566年頃に家康に下るなど勢力を変えていました。真田と似ている一面がありますね。

2.信玄に属する

1570年12月に甲斐・信濃を治める武田軍が徳川領の三河に向かうため、途中の東美濃・恵那郡上村へ侵攻してきました。ですが、このとき奥平信昌は徳川の援軍として参加します。ただこの時奥平家は武田内通していたため殆ど戦うことはなかったです。それで、結果は戦いは武田軍の勝利に終ります。そのため、奥平家は徳川家から武田家に従うことに決めました。裏切りですね。その際におふうなどの身内を人質として武田家に送りました。

3.徳川に従いおふうを失う

1573年4月12日に信玄がいなくなりました。私の誕生日の次の日にいなくなったんですね。そんなことはさておき、それでもまだ武田は強かったです。その最中に徳川軍は長篠城への攻撃を行ったことで対立します。その時に武田勝頼が失態を犯します。このとき家康は奥平に調略をします。内容は家康の長女こと亀姫と奥平信昌の婚約、領地加増、奥平定能の娘を本多重純に入嫁させるという条件です。その条件を奥平は受け入れました。ですので、家康に従うことになります。ただ、家康から亀姫をもらい受けるため奥平信昌おふうを離縁しました。これを聞いた武田勝頼は激怒し1573年9月21日におふうなど人質に取っていた3人を処刑しました。

これにより、家康に最も近い立場となった奥平信昌が奥平家の当主となるのがふさわしいと考えられるようになります。

4.武田勝頼の西上作戦

信玄がいなくなってから武田は一時中断していた西上作戦の再開を目指し積極的な勢力拡大策を進めていきます。その際に信玄でも攻略できなかった高天神城の攻略を果たします。そして、1575年4月に1万5000人の兵を率いて再び徳川領への侵攻を開始します。このとき。武田勝頼による最初の狙いは裏切者である奥平信昌が守る長篠城でした。

5.長篠の戦いで包囲される

長篠城の城兵は500人な程度という小さな城でした。また、かつて奥平家を臣下にしていた武田家は長篠城の防衛力を熟知しています。これは武田に有利ですね。ですので、武田軍は長篠城を包囲してしまいました。その間、武田軍は奥平信昌からの降伏の使者が来るのを待っていました。一方で奥平家は武田軍の囲みを突破する力はありません。困った奥平信昌は家康からの援軍を急がせるため、長篠城から鳥居強右衛門を送り出し、約65km離れた徳川家康の居城・岡崎城に向かわせます。そこで、家康は急ぎ徳川軍8000人を引き連れ、徳川援軍として集結していた織田信長軍3万と共に長篠城に向かって進軍します。その際に信長は長篠城を解放するだけではなく武田軍を倒すための策を練ります。流れは話すと長くなるので割愛しますがこれによって長篠城は解放されます。一方で武田軍は退路を断たれることとなり大敗します。

6.天正壬午の乱と京都所司代任命

その後、本能寺の変が起こると家康が権力の空白地帯となった武田遺領への侵攻を開始しました。その際に奥平信昌が武田遺臣の取り込みと、武田遺領の反乱防止に尽力していました。それ以降も色々家康に貢献しました。

また、時が経ち1590年7月に秀吉によって家康が関東に移封された時に奥平信昌もこ関東に移り上野国甘楽郡宮崎3万石を与えられます。そして、関ヶ原が終わってからは奥平信昌は初代京都所司代にとなりました。その際に奥平信昌は関ヶ原の戦いで西軍に与した諸将の捜索を行い安国寺恵瓊を捕縛し大津にいた家康の陣所に送るという成果を挙げています。ただ、宇喜多秀家には逃げられています。

7.隠居と最期

1601年3月に奥平信昌はそれまでの功績から褒賞として美濃国加納10万石へ加増転封されます。そして1602年に家督と藩主の座を三男の奥平忠政に譲り隠居します。それから1615年3月14日に死去し美濃国加納・盛徳寺に葬られます。

奥平信昌のエピソード

奥平信昌の逸話で最も有名なものは長篠の戦いでの活躍かと思われます。実は包囲されて何もできなかったわけではないんです。

まず奥平信昌は長篠城内で指揮を執りました。そのおかげで信長と家康の援軍が到着するまで城を守り抜くことができました。人が少なくても必死に守ったんですね。また長篠城の戦いで奥平家臣の鳥居強右衛門が単身で敵の包囲を切り破り家康に援軍を求める使者を送ったという逸話があります。そんなこと普通の人ならばできないはずです。それなのにやりました。

そして、奥平家は江戸時代の時に大名として下野国宇都宮10万石、後に豊前国中津10万石の藩主となりました。それもあって、大分県中津市の奥平神社では今でも奥平信昌の勇敢さを讃える「たにし祭」が毎年開かれているそうです。大分県民ならばそこらへんは詳しいのかなと思われます。

まとめ

まず武田勝頼って思った以上に強かったんですね。お父さんを越すって気概があったわけですし。それでもって長篠城を包囲しましたからね?ですが、信長が来たことでその夢は壊れましたが…。一方で奥平信昌をなかなかのしごできなのかなとも思いましたね。たとえツムツムであったとしてもちゃんと指示を出したことで援軍が来るまでなんとかしたわけですし。それがあまり表に出ないのが残念ですが。まあ、とにかくどちらもすごい一面はあるということです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう