日本一有名な足軽?鳥居強右衛門とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!足軽ってどれくらいの身分かは分かりますよね?武士の階級の方でも低いです。下の下くらいに思ってください!秀吉だってはじめは足軽だったんですから。それがどうしたんだよって?実は足軽だけど有名な方がいるんです!その名は鳥居強右衛門です。有名になったきっかけは長篠の戦いです。実は長篠の戦いなんですがはじめは武田の方が優勢でした。隠された話ですね。ですが、鳥居強右衛門の動きによって徳川・織田が優勢になりました。この方がいたから今の歴史があるんです!では一体彼は何をしたのか?この記事にて話したいと思います!

鳥居強右衛門のプロフィール

彼のことを知る人は少ないかと思われます。足軽だからこそ余計にです。ですので、まずは彼のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 鳥居強右衛門

生年月日 1540年

出身地 三河国

没年 1575年(享年36歳)

備考

鳥居強右衛門は長篠の戦にて決死の覚悟で長篠城を抜け出して岡崎城の家康のもとに援軍を要請した人です・。鳥居強右衛門は援軍要請には成功したものの長篠城に戻る途中で武田軍に捕らわれ処刑されてしまいます。ただ、その勇気と忠義心は語り継がれています。

鳥居強右衛門の人生

以上が彼のプロフィールです。彼は長篠の戦いでエースとなったもののそれで命を落としました。では一体どんな人生だったのか?今から話したいと思います!

1.長篠城の危機

残念ながら彼の生い立ちなどは分かりません。足軽だとそうなのかもしれませんね。ですが、あることがきっかけで名前が出ます。それは長篠の戦いです。長篠の戦いまず武田軍は長篠城主・奥平貞昌をターゲットにしました。ちなみに戦力で言うと武田氏の1万5千の兵、奥平軍はたった500です。そのため、長篠城は開戦から6日目に兵糧庫を焼失してしまいました。これは長期の籠城が難しいです。あと数日で落城かという状況に追い詰められました。奥平貞昌は岡崎城にいる家康に援軍を求めたいものの武田の大軍に取り囲まれているため困難です。そんな時一人の足軽が援軍要請の使者に志願しました。それが鳥居強右衛門です。三河国宝飯郡の生まれで長篠の戦いの時は数えで36歳です。彼は水練の達人でした。

2.命懸けのレース

鳥居強右衛門は夜分遅くに城の野牛郭と呼ばれる下水口から出発しました。次に川を潜って武田軍の長篠城包囲網を見事突破しました。そして、長篠城から見通せる雁峰山からのろしをあげて脱出の成功を城に知らせるとその日の午後には岡崎城に到着しました。それまでの距離はどれくらいなのか?水泳4km、走行距離が65kmです。相当体力がありますね。これをやれたことで無事に援軍派遣を要請した鳥居強右衛門。なんと、タイミング良く家康と連合を組んでいた信長軍も既に岡崎城で準備をしていました。これで3万8千の軍は翌日にも長篠へ向けて出発できるようになりました。鳥居強右衛門の努力は実りましたね。

3.朗報の報告

大喜びの鳥居強右衛門は信長や家康が身体を休めるように言われたのにそれを無視しました。なんと吉報を届けるためにすぐさま長篠城へ戻りました。その際に「うまくいった」というのろしを上げて長篠城への入城をしようとしました。ですが、鳥居強右衛門は武田軍の兵に見つかり、捕らえられてしまいました。

4.武田勝頼との取引

取り調べによって織田・徳川連合軍が長篠城へやってくることを知った武田勝頼は鳥居強右衛門にある取引を持ちかけます。内容は援軍は来ないからあきらめて城を明け渡せという嘘の情報を城に伝えることです。そうすれば褒美を与え武田の家臣とすると言いました。鳥居強右衛門はそれを快諾しました。嘘だろって?焦らないでください!なんと長篠城を見通すことの出来る場所へと引き立てられた鳥居強右衛門は城に向かって「あと2、3日で数万の援軍が必ず来る!だからそれまで持ちこたえよ!」と叫びました。驚いた武田勝頼は怒り、その場で鳥居強右衛門を磔殺してしまいました。享年36歳です。それを目にした長篠城の城兵たちは2日間を必死で耐え城を武田軍から守り通すことに成功しました。のちに信長を総大将とする軍が武田軍を破り長篠の戦いは織田・徳川が勝利しました。

 

鳥居強右衛門のエピソード

鳥居強右衛門の死に関しては斬られたという説と磔にされたという説があります。一般的には磔にされたという逸話が有名で伝わっています。鳥居強右衛門が武田軍に捕らえられた後のわずかな時間鳥居強右衛門を監視していた武田家の家臣こと落合左平次道久は勇気と忠義心に感銘を受けたそうです、敵なのにその気持ちになるのは相当です。そのため、落合左平次道久は磔にされている鳥居強右衛門の姿を絵に残したそうです。そして、それを旗指物として使ったと伝えられています。

鳥居強右衛門の子孫

鳥居強右衛門の勇気と忠義心は多くの人に感銘を与えました。そのため、鳥居強右衛門の子の鳥居信商は100石を与えられました。これいきなり金持ちになるのと同じことですからね。どれだけ認められたことなのか?また、子孫は家中で厚遇されることになり家老を務めることもありました。そのおかげで、鳥居強右衛門の家系は現在も存続しています。

まとめ

足軽で有名になるとは相当ですね。私的には武田の味方する振りして援軍来るよって言ったのがすごいと思いました。命と引き換えに勝って欲しいと思ったんでしょうね。これ見ても英雄になるのは無理ないと思いました!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう