紫式部の旦那!藤原宣孝とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!紫式部ってあの時代では晩婚だったそうです。道長とは結婚できないのって?そうなんです。光る君へでは2人は両思いですが結ばれません。史実では倫子が嫉妬してしまうくらいの愛人ではあるんですけどね。では彼女は誰と結婚したのか?それは藤原宣孝という人です。彼はアラフィフです。そのため、20歳以上の歳の差婚です。また、宣孝はアラフィフでもモテていました。結婚してからも紫式部が寂しがる和歌とかありますからね。モテるとなるとどんな人なのと思いますよね?ですので、この記事にて話したいと思います!

 

藤原宣孝のプロフィール

宣孝と言われても何者と思うはずです。ですので、まずは簡単なプロフィールを書きますね!

名前 藤原宣孝

生年月日 不祥

没年 1001年5月20日

備考

紫式部の旦那です。優秀で色々は要職に就いていました。その話は後ほどしますね。

藤原宣孝の人生

以上がプロフィールです。紫式部の旦那なのに有名になれないのは謎ですが。では、彼はどんな人生を歩んだのか。

1.生い立ち

宣孝は平安時代中期の公卿こと藤原為輔の子として生まれます。ただ、生まれた時は不詳です。少なくとも言えるのが宣孝の次兄の説孝が947年に生まれているためそれより前だと考えられます。もちろんその当時は天皇家との結びつきを強めた藤原北家が勢力を拡大していたときです。ちなみに宣孝自身も北家出身なのはもちろんのこと、道長たちの家系である九条流が特に栄えたため政治の中枢を担うようになりました。その中でも自分の娘を天皇の妻にした道長のおじいちゃんこと藤原師輔の家系が特に栄えたそうです。

2.出世の道を歩む

宣孝も数々の要職を務めることになりました。990年に宣孝は御嶽精進を行い筑前守に任命されています。それだけではないです。998年には石清水臨時祭と賀茂臨時祭の舞人を奉仕しており山城守を兼任しました。ちなみに石清水臨時祭と賀茂臨時祭は南祭・北祭と呼ばれる伝統行事で1870年に廃止されるまで開催されていました。

さらに998年の11月末には豊前国に位置する宇佐神宮の奉幣使にも任命されたました。奉幣使とは神に供物を捧げるひとです。神社に参る使者と思えばいいです。このように数々の職務を任せられているということこら世知に教養のある人物だったのかと思われます。

3.紫式部に求婚

998年の晩秋の時に紫式部と結婚しました。とは言えども、宣孝は紫式部に対して3年前くらいから求婚していたそうです。その時期って紫式部はお父さんこと藤原為時の転勤で越前に引っ越していました。なんか約2年くらい越前にいたそうです。ですが、宣孝からの求婚は途切れません。京都から離れた越前の地まで手紙を送り続けていました。その時紫式部は塩対応な和歌を書いていたそうです。ただ、返信しないわけではないことから本気で嫌っているわけではない感じではありました。そんな感じであったものの、紫式部は約2年を越前で過ごしてから帰京し宣孝は紫式部と結婚しました。ちなみにこの時の紫式部は29歳でその当時では晩婚でした。清少納言や和泉式部の初婚は10代ですからね?昔の時代ほど結婚は早いですよね。

※為時と為輔は従兄弟であるため宣孝と紫式部はいとこのいとこです。

5.子供と最期

それから賢子という女の子が生まれました。賢子は大弐三位とも呼ばれ女流歌人として文化面で活躍したそうです。ちなみ賢子が詠んだ和歌は後に小倉百人一首にまとめられたそうです。もう名前の才能を持った賢い子ですね。ですが、妻・紫式部とも円満な関係を築いていたとされる宣孝は1001年に当時流行していた疫病にかかりいなくなりました。宣孝の死後、紫式部はこのような和歌を書きました。

見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦

親しかった方が煙となって消えてしまった夕方、陸奥国の塩釜の浦でたなびく塩焼きの煙でさえも慕わしく感じられる

 

この和歌は宣孝に捧げるために詠まれたとされ紫式部集にも収められています。

藤原宣孝と源氏物語

宣孝がいなくなってから紫式部は大変でした。なぜなら、1~2歳の賢子がいたからです。それで、その苦しさや宣孝の死の悲しみを紛らわすために源氏物語を執筆しました。源氏物語が書けたのも若いころは家に引きこもりがちだったという紫式部に宮中の事情を話してくれた宣孝のおかげかもです。そう考えると宣孝とのご縁がなかったら世界最古の長編小説といわれる源氏物語できなかったかもですね。

 

藤原宣孝のエピソード

彼に関しては色々見がいのあるエピソードはあります。ですので、その話もしますね。

1.ダンスで引っ張りだこ

宣孝は舞を得意としていました。その際に998年には石清水臨時祭、賀茂臨時祭で舞を奉納したそうです。また、999年には宮中の行事で神楽の人長を務めたという記録もありあます。神楽とは神に奉納する舞楽のことで人長は演奏を指揮し舞を披露する役です。これは平安貴族にとっては重要な仕事の1つです。これを見ても宣孝のデキる男ぶりがうかがえます。

2.女好きで紫式部を泣かせる?

宣孝は紫式部に文を送って求婚しますが結婚してからは反対です。紫式部が宣孝の夜離れを嘆きこんな歌も見られます。

入るかたは さやかなりける 月影を うはのそらにも 待ちし宵かな」紫式部
「さして行く 山の端もみな かき曇り 心の空に 消えし月影

入る方角がはっきりと分かる月は、他の女性のところへ行ってしまうあなたのようね。あなたを待ちながら、ぼんやりと眺めていたの

訪れるはずの宣孝から今夜は行けなくなったと連絡があったためこのような和歌を書きました。その際に宣孝は「山の端が曇っていたので、君のところに行けなかったんだよと言い訳していました。

まとめ

光る君への主人公が紫式部なので紫式部目線で書きますね。アラフィフでも結婚のご縁があるなんて今の時代でもすごいなと思います。ですが、結婚生活が3年くらいとは紫式部からしたら切ないものですね。ですが、それが糧になるということは彼は紫式部にとっては大きな存在なのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう