家康の嫡男!松平信康とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康の後を継いだのは秀忠です。そんなの有名って感じですね。歴ヲタならばそうお思うはずです。じゃあなんでそんな話をするのかって?実は家康の後を継いだ秀忠は嫡男ではないです。むしろ、3男だし側室の子です。別にそれが悪いことではないです。そういうことはあるえるですし。ですが、嫡男って誰だよって思う方もいるのかなと思われます。だって教科書にも登場していないですし。家康の嫡男の名前は松平信康という方です。本来ならばその彼が後を継ぐことになっていました。ですが、ある事件の影響で追いやられました。それ故に2代目将軍にはなれなかったんです。では松平信康とはどんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

松平信康のプロフィール

まずは松平信康のことがあまりよく知らない方もいるのかなと思われます。教科書にも載っていない人ですし。ですので、まずは松平信康のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 松平信康

出身地 駿府国

生年月日 1559年4月13日

没年 1579年10月5日(享年21歳)

備考

家康の嫡男です。とは言えども、途中から家康とは暮らしていません。むしろ、別居生活ではあり築山殿や妻の徳姫と岡崎城で暮らしていました。また、武田と内通をしていたという疑惑のせいで処罰されました。

松平信康の人生

以上が松平信康のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?今から話したいと思います!

1.生い立ち

松平信康は1559年に家康の長男として駿府で生まれました。竹千代です。徳川の幼名は竹千代と名付けられます。ちなみに竹千代という幼名は徳川将軍家世継ぎになる見込みのなる男の子が名付けられるものです。もちろん、秀忠や家光も幼名は「竹千代」でした。ちなみに松平信康の幼少期は今川の人質として駿府で過ごしました。

2.人質と婚姻

1560年に起きた桶狭間の戦いを期に家康は今川から独立し岡崎に移りました。ですが、松平信康はしばらくは駿府に抑留されていました。今川が許さなかったんでしょうね。ですが、今川との人質交換で築山殿とともに岡崎へ引き取られることになりました。

そして、1567年には信長の娘である徳姫と9歳で結婚。しました。まだ小学生の段階でって思うかもしれませんが戦国時代なららあるあるです。ちなみにこの結婚が成立した理由は家康の都合です。この時期家康は信長と同盟関係にありました。そのため、政略結婚としてそれぞれの息子と娘を結婚させたのかなと思われます。そして、松平信康は1570年に元服しました。また、家康が浜松城に移ったことにより岡崎城主になりました。ちなみに、ちょうどこの時から信長から「信」の字を送られ「信康」と称しました。

3.徳姫と不仲になる

ここまでは順調ですね。何もなければ信康は家康の後継者として江戸幕府の将軍になっていた可能性はなくもないです。嫡男なんですから、ですが、ある出来事によって松平信康は将軍の地位を失いました。いや、人生そのものを奪われることになります。

その経緯を今から話しますね。実は信康と徳姫の間には2人の子供が生まれました。ですぎ、いずれも女でした。そのため、築山殿は徳川家の家臣こと浅原家の娘を松平信康の側室に迎え入れるのです。徳姫がこれに反発しました。そりゃ徳姫からしたらいやですもんね。それで、1579年き徳姫は信長に「十二ヶ条の訴状」を出しました。内容は色々あります。その中でもインパクトごあるのは松平信康と築山殿が武田と内通しているということです。その際、信長は家康に2人が武田と内通してるのかが本当なのか確かめるためにその時の使者こと酒井忠次に聞いてみたところ彼は弁解しませんでした。それ故に信長は松平信康と築山殿を処罰しろと家康に命じました。

4.家康の意の元処罰される

武田との内通の件は色々説はあります。とは言えども、徳姫から訴状がきっかけとなって松平信康と築山殿に対する処罰が決定しました。その際に松平信康は岡崎城を追われ最終的に遠江の二俣城に移されそこで切腹させられます。享年21歳でした。また、築山殿も岡崎城から浜松城に呼び出しを受けて向かう道中、家康の家臣こと野中重政 よって築佐鳴湖の湖岸で暗殺されました。詳しいことはこちらを見てください!

息子と妻を追いやる?築山殿・松平信康事件とは何か?

ある人の嘆願

松平信康が武田との内通を疑われた時に松平信康を助けようとしたのが徳川十六神将の1人である平岩親吉です。平岩親吉は松平信康の傅役として長年面倒を見ていました。そのため、平岩親吉は松平信康を自分の子供のように見ていたのかもしれません。それもあってなのか平岩親吉は自分の首を差し出すことで信長に許しを得ようとしたという話もあります。ですが、事態を食い止めることはできず松平信康は切腹。そして、平岩親吉は蟄居謹慎になりました。ですが、平岩親吉は後から許されたため再度家康に仕えました。

松平信康の子孫は徳川慶喜?

え?そんなことあるのって?あるんです。実は松平信康には3人の娘がいました。そのうちの1人である熊姫という方は家康の重臣こと本多忠勝の息子と結婚しています。それで、その2人の子供である本多忠刻が徳川秀忠とお江の娘こと千姫と婚姻して(秀頼がいなくなってからの話です)勝姫という子供ができました。そしてそのまま家系図をたどっていくと徳川慶喜のにつながるのです。ということは徳川慶喜は松平信康と秀忠の血を受け継いでいるということです。

まとめ

もしこの事件がなかったらどうなってたんですかね?きっと戦などで負けて死ぬみたいなことや何かしらのいざこざがなかったらワンチャン後継になれていた可能性だってあったのかなと思われます。ですが、現実はそうはいきませんでした。それはやは。武田との内通が疑われたのと徳姫との仲が悪くなってしまったからなのかなと。また、家康自身も松平信康のことを深く思っていなかったから後継は無理だったのかなと。まあ、とにかく色んなことが重なったことで嫡男としての夢が途絶えてしまったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。