家康の産みの親!於大の方とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康のお母さんって誰となりません?だって家康は天下人でありかつ260年も平和な世の中を作った人ですよ?このような人を誰が産んだのか気になる人が誰かしらいてもおかしくないです。彼女の名は於大の方です。この方は波乱万丈な人生でした。家の争いのせいで離縁火ないといけない時もありました。本当はしたくなかったでしょうね。また、家康から離れないといけない時期もありました。家康が人質となっていたときなんてまさにそうです。「麒麟がくる」でも竹千代時代の家康がお母さんと離れて暮らしてるのが寂しいなんて言ってましたよね。まあそんな波乱万丈な状況でも家康のことを必死で支えた人物です。彼女がいてくれたから家康があると言っても過言ではありません。では一体彼女はどんな人生を歩んだのか?この記事にて話したいと思います!

於大の方のプロフィール

まずは於大の方がどんな人なのかについて知るためにプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 於大の方

生年月日 1528年

没年 1602年10月13日(享年75歳)

備考

於大の方は東京都文京区小石川にある傳通院に葬られています。私の地元から近いです。出前館時代ではそっちの方面に配達しに行ったことはあります。

於大の方の人生

以上が於大の方のプロフィールです。では彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.松平広忠の正室となり家康を産む

1528年に於大の方は生まれました。父は水野忠政で、母は於富の方・於満の方となります。於大の方は1541年(1540年という説もあります)に新たに岡崎城主となった松平広忠の正室となりました。その当時の於大の方は14歳です。そして1542年12月26日に嫡男の家康を生みました(家康の誕生日ってクリスマスの次の日なんですね)。その際に於大の方は家康が寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたことに焦点を当てました。そのため、於大の方は家康は寅の化身であると家臣らに披露したと言われています。

2.家の都合により離縁

水野忠政の没後家督を継いだ水野信元は、今川を裏切り織田方につきます。その影響で松平広忠は敵方の妹を妻としておけないと考えたため離縁となりました。於大の方を守るにはその選択肢しかないですよね。その際に於大の方は3歳の家康を残して岡崎から帰されました。その後は刈谷城外の椎の木屋敷に住み、刈谷楞厳寺で佛門に入り手持ち品を納めたそうです。

3.坂部城主の久松俊勝との再婚

1547年に坂部城主の久松俊勝と再婚しました。坂部城には15年いたそうです。また、夫俊勝との間には、康元・康俊・定勝など三男四女をもうけました。ただ、岡崎では織田軍が大軍乱入していたため今川に援助を頼みました。今川義元は受託すると引きかえに竹千代を人質にしろと要求しました。

4.家康との再会

1560年に桶狭間の戦いの2日前に家康は上洛をめざす今川義元の先発隊として出陣しました。その際に家康は阿久比まで馬を駆け於大の方のところまで会いに行きました。17年ぶりの涙の再会です。家康は対面した三人の異父弟に松平の姓を許しました。ですが、2日後の桶狭間の戦いの時に今川義元は討死にし大高城にいた家康たちは孤立しました。ですが、緒川の信元が助けたことでみんなで無事岡崎へ帰ることができました。

5.家康を支える

その後は家康と共にいることができたそうです。また、久松俊勝は家康にとりたてられ蒲郡の上ノ郷城主となりました。このように落ち着いた点はありました。ですが、家康の正室こと築山殿と自分の長男の康元が処刑されるなど色々ありました。それでも、家康のことはずっと支えていました。そして1602年に家康たちに看取られながら「日本一幸福な母」として8月28日京都伏見城で75歳の生涯を閉じました。

於大の方には命の恩人がいた!

実は於大の方には命の恩人がいました。その人がいたから生きれたと言っても過言では稲生政勝です。彼は20歳の頃に半田市亀崎の地を訪れ、漁師の中から若者を選び出し水軍を結成し、於大の方のお父さんこと水野忠政の船奉行となりました。ではどのタイミングで於大の方を救ったのか?

 

1.松平広忠と結婚するとき

はじめに於大の方を救ったのが1541年です。於大の方が岡崎城の松平広忠に嫁ぐ事になります。これを聞いた織田信秀は水野家と松平家との結びつきを恐れ於大の方を強奪しようとしました。この情報を聞いた水野忠政は盛大な花嫁行列を陸路を進ませているときに於大の方を稲生政勝に預け亀崎城から船で矢作川をさかのぼらせ岡崎城へ無事に送り届ける事に成功しました。

2.松平広忠と離縁する時

1543年に水野忠政が死去すると、跡を継いだ水野信元は松平広忠の主君である今川氏から離反し織田家と手を結ぶ事を選択します。それにより於大の方は松平広忠より離縁され、刈谷城の水野信元の元へ返される事になりました。
輿に乗り岡崎衆の手で国境まで送り返されてきた於大の方ですが水野家の人々は敵となった岡崎衆を皆殺しにしようという心意気で於大の方の輿を迎えます。これでは於大の方の命が危ないです。そこで、稲生政勝は両軍の間に入り「静まれい!」と大声で言いました。そして、於大の方も家康のためと呼応したため無事に終わりました。

まとめ

駆け足になりましたがこんな感じです。前半の人生は波瀾万丈でしたね。3歳の家康と離れ離れになるのは悲しいことです。離縁とのダブルパンチとしか言いようがないです。どうですが、なんとか再会できてよかったです。ただ、再会してからのエピソードがあまりないので「どうする家康」にて知っていけたらいいなと思います!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう