戦国のカリスマ!織田信長とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!戦国時代のカリスマと言えば織田信長です。誰が言おうと信長です。私の初めての推しは信長です。それくらい存在感があると思っています。実際に大河ドラマでも信長が主役の作品でなかったとしても信長は目立ちます。岡田准一なんてイケメンです。でも個人的には「麒麟がくる」の信長が好きです。天下をとってからの染谷信長の演技には目が離せませんでした。皆さんはどの信長が好きですかね?まあ、とにかく信長は目立つ存在です。ですので、この記事にて話したいと思います!

織田信長のプロフィール

まずは信長とはどういう人かを知るためにも信長のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 織田信長

生年月日 1534年

出身地 尾張国(今の愛知県です)

没年 1582年6月21日(享年49歳)

備考

誰もが思うカリスマです。信長はイケメンだと思う方はいるのかなと思われます。私もそのうちの1人です。また、彼は戦乱の世を作りたかったわけではないです。縄文時代のような平和な時代を作りたかったんです!それが江戸時代です。

織田信長の人生

以上が織田信長のプロフィールです。では織田信長はどのような人生を歩んだのか?

1.尾張の国で生まれる

織田信長は、1534年6月に、尾張国の領主であった織田信秀の子としての生を受けました。実は信長が生まれた頃の尾張国といえば、滅亡しそうなくないの弱小国でした。今川にも斎藤道三にも睨まれている状況でした。また、尾張の領内は他の織田家と敵対していました。もうここまできたら大ピンチですね。

ちなみに信長の幼少期は破天荒な人物として知られています。今でいうパジャマで街を歩いたり腰には帯ではなく縄を巻いてひょうたんをぶら下げていたのだそうです。また、ひとりでブツブツすることが多かったとか。特に父親の葬儀で焼香の際に、香をつかんで仏前へ投げつけるなどの奇行を行ったのは有名ですね。それ故に「大うつけもの」と呼ばれていました。

2.帰蝶様と結婚をし斎藤道三との結束を固める

1548〜49年頃に信長は美濃国の領主である斎藤道三の娘こと帰蝶様と結婚しました。帰蝶様のことに関してはこちらの記事を見てください!

https://www.rikachu-idea.com/what-kicho/

もちろん政略結婚です。この出来事は信長が織田家の家督を継ぐ者として認められた証とも言われています。ちなみに帰蝶様と信長は政略結婚であったものの相性が良かったそうです。どうやら帰蝶様は信長のやりたいことなどを分かっていたそうで。ただ、2人の間に子供がいないと言われています。

その後1551年にお父さんの信秀がいなくなってから信長が跡継ぎとなり1665年に尾張国を統一しました。

3.桶狭間の戦いと清州同盟

時は1560年、信長の勢力が強くなったきっかけとも言われる桶狭間の戦いが始まりました。25000の今川軍をたったの4000で潰したんですから。実はこれには裏があります。それは家康が信長のスパイで色々情報を流していたそうです。詳しいことはこちらを見てください!

信長の転機!桶狭間の戦いとは何か?

そのおかげで実は信長は有利だったそうです。なんでそんなことができたのか?それは家康は信長の人質となっていた時に仲良くなったからです。表向きでは敵同士でも実は繋がってたんですね。そして、その後に家康と清州同盟を結びました。

4.美濃国の領主と楽市楽座

斎藤道三がいなくなってからは織田家と斉藤家は対立関係になりました。そこらへんは「麒麟がくる」でも描かれていましたね。その影響で1561年頃から争うようになりました。最終的には1567年の斎藤家の居城である稲葉山城を攻め落とし信長が勝ちました。そして、稲葉山城を岐阜城と改め自身の本拠地にしました。この戦いに勝ったことで信長は美濃国の領主となりました。

そして、その後信長は戦後復興および商業の振興のために楽市楽座令を出しました。楽市楽座とは商売をするのにかかっていた税金を免除し、座という商工業者団体の持っていた特権をなくすことでどんな人でも商売しやすいようにした政策です。そのおかげで商売が盛んになりました。また、楽市楽座以外にも関所を撤廃したり、南蛮貿易をしたりしたことでこ経済が活性化するようになりました。

5.朝倉・浅井との戦いと比叡山延暦寺焼き討ち

1570年に朝倉義景と戦うことになりました。その際のキーパーソンは浅井長政です。浅井長政ははじめは信長の味方でした。だから、信長の妹は浅井家に嫁ぎました。ですが、浅井長政の家臣たちが信長の考えについてこなかったのもあって浅井長政は信長を裏切り朝倉家につきました。そのせいで信長は信長は挟み撃ち状態になりました。ですが、光秀こと十兵衛と秀吉が助けてくれたことでなんとかなりました。

ただ、それだけでは済みません。比叡山延暦寺の僧との争いが待ち構えていました。その当時の比叡山は浅井、朝倉家との関係が深かったため僧からしたら信長がうざいと思っていました。また、朝廷とも結びついていたため厄介でした。とは言えども解決しないといけません。ですので、1571年、信長は延暦寺の焼き討ちを実行し解決しました。

6.足利義昭の追放

1568年に信長は足利義昭と会見し、京都へ上洛を開始します。その際に室町幕府を復興するために色々動きました。このように、本来は共にやっていこうって感じでした。ですが、足利義昭が信長に嫌気をさしました。そのため、1573年に足利義昭は信長と断交し武田家を頼って挙兵しました。ですが、信玄が翌年にいなくなったため武田家は領内に撤退しました。足利義昭にとってはツムツムです。そこで義昭は槇島城に立て籠もるものの信長はこれを攻め義昭を京都から追放します。これで室町幕府は終わりました。

7.長篠の戦いと安土城の築城

あの武田家との戦いです。1575年に武田勝頼と織田・徳川軍が激突します。ただ、あの強い武田家との争いであったとしても長篠の戦いは信長が有利でした。まず信玄が急死したことにより武田軍は進軍を一度中止して引き返さざるを得ませんでした。そのおけげで織田・徳川は戦への準備をすることができました。その結果、織田・徳川連合軍の総数は武田軍を上回ることになります。また、準備期間に織田・徳川は3000丁もの鉄砲を用意することができたそうです。そのおけげで戦では「三段撃ち」を実行することができました。「三段撃ち」とは鉄砲隊を1000人ずつ3列に布陣し、最前列は射撃後に最後列まで下がり、弾を込めている間にほかの2列が撃つという作戦です。このように準備が整っていたのはもちろんのこと鉄砲を使ったことで信長が勝利し武田家は滅びました。

そして、その後、1576年に信長は家臣の丹羽長秀らに命じて近江国に安土城の築城を開始し1579年に完成します。安土城は地上6階、地下1階に及ぶ大規模な天守であったそうです。

8.本能寺の変

桶狭間の戦いからいい方向に物事が進んではいます。ですがある事件が起こります。それは本能寺の変です。側近の十兵衛が謀反を起こした話ですね。あれは真相が読めないです。信長の遺体も見つかっていないです。十兵衛の本当の気持ちもわからないです。それ故に迷宮入りです。詳しいことはこちらを見てください!

なぜ本能寺の変が謎なのか?

私的には信長は生きていたという説にかけます。これに関してはいつか話したいと思います。

まとめ

色々省略はしましたが信長の人生はこんな感じです。大まかな点が分かればいいです。桶狭間の戦いで勝てたことからここまで成長したのはすごいことです。きっと縄文時代のような世の中にしたいという信念が強かったからこそできたことですね(この話の詳細はいつかできたらします)。あと、信長は目標達成のために合理的に事を進めていたそうです。それもあって色々あっても着実に進められたのかと思われます。だから、カリスマ的存在になれたのかと思われます・以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう