早稲田の創設者!大隈重信とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!クイズです!早稲田大学の創設者は誰でしょう?そんなもん百も承知。大隈重信だろって?そうですね。その通りです。変人大学の創設者は彼しかしないです。てか、なんでそんな話をしてきたんだよって。大隈重信って早稲田の創設者というイメージは強いかと思われます。ですが、それだけではないんです。なんと、政治家でもあったんです。普通に総理大臣やっていた時もありましたよ。まあ、ここに関しては日本史の授業では書いてあるんですけどね。ただ、印象には残りにくいネタではあるかと思われます。ですので、この記事にて大隈重信とはどんな人かについて話したいと思います!

※自分の興味故に書いたって感じです。茶番に付き合ってください。

大隈重信のプロフィール

まず大隈重信とはどんな人だったのかを知るためにも簡単なプロフィールを作りました!

名前 大隈重信

出身地 肥前国佐賀城(今でいう長崎)

生年月日 1838年3月11日

没年 1922年1月10日

好きな食べ物 メロン🍈

日本人で初めてマスクメロンを食べた人だそうです。また、好きすぎて栽培したり、自宅で品評会を開いていたりしました。ガチなメロンヲタクですね。

大隈重信の人生

以上が大隈重信の基本情報です。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.おてんば野郎!

大隈重信は1838年3月11日に、現在の佐賀県こと肥前藩の藩士の家に生まれました。上級武士のお坊ちゃんです。ただ、子供の頃はて毎日のように喧嘩をするような問題児だったそうです。実際に6歳の時に弘道館という藩校に通っていたものの、教育方針に疑問を持ち反発したことから退学されちゃったそうです。行動力はあるちゃあるけど親からしたら困るものですよね。

それもあってお母さんは熱心に教育をしたそうです。それ故に喧嘩ばかりの子が友達を大切にするような子に変わったそうです。

2.聡明な青年

幼少期は色々あったものの、青年時代は聡明だったそうです。15歳で元服を済ませるまでには優秀な青年に育ったそうです。具体的には退学してから6年後にあの弘道館の教授にもなりましたからね?(弘道館では色々反発してましたが在籍中は優秀ではあったそうですが)。まさかの展開ではありますね。ただ、1866年、大隈は時代の流れを読まない藩に嫌気がさし脱藩しました。結論としては捉えられ謹慎処分になったそうです。

3.明治政府となる

色々あったものの謹慎処分は解かれました。その後は江戸に行き明治政府に出仕したそうです。それで、何をしたんだよって?なんか、外国事務局判事として長崎に赴任したそうです。赴任中での実績としては長崎のキリシタンを政府が捕らえ、流罪とした浦上教徒弾圧事件の際に外国の公使団は猛反発したそうです。そんな時、大隈重信は臆することなく、うまく対処しました。

このような実績から閣僚ポストこと参議に就任し、1873年には大蔵省の長官となり、廃藩置県・学制公布・国立銀行条例の制定などをしたそうです。

4.明治14年の政変

1880年頃から、全国で自由民権運動が起こりました!板垣退助のやつですね。どういうものかと簡単に言うと政府に対して、民主的改革を求めた政治運動です。このような運動の影響で国会開設についての意見を求めることにしました。その際に大隈重信は憲法を早く公布して国会を開設するように言いました。慎重な人が多い中この発言はなかなかです。ただ、よく思わなかった伊藤博文らによって失脚させられてしまいます。これを明治十四年の政変といいます。

5.立憲改進党と早稲田創設

追いやられた後な立憲改進党を結成しました。立憲改進党とさ二院制・イギリス流立憲君主制を主張していたそうです。さらに、西洋諸国と肩を並べるには国民の啓蒙が必要ということから今の早稲田大学でもある東京専門学校を創設しました。それから1888年には政府に呼び戻され、第一次伊藤内閣の外務大臣に就任しました。その際に大隈重信は不平等条約の改正に努めました。ただ、そんな矢先にアンチからの爆弾テロに遭い、右足を失ってしまったそうです。理由としては極秘にしていた草案がリークしたからだそうです。

6.内閣総理大臣となる

まあ、色々あったものの1889年に行われた初の衆議院議員総選挙では立憲改進党は多くの議決を獲得したそうです。そして、諸派と合同して進歩党を結成したり、板垣退助率いる自由党と合同し憲政党を結成したりしました。このような実績から1898年、初の政党内閣を組閣し大隈は総理大臣になりました。ですが、4ヶ月という短命で終わりました。その後は政治から遠ざかるようになり、文化や社会などに携わったそうです。また、1907年には憲政本党の総理を辞任し早稲田大学の総長になったそうです。その際に、講演活動を行い、国民からの人気を得ていきました。

7.政界に再登場!

1914年、第一次山本権兵衛内閣が汚職事件で逮捕されたことから大隈重信が総理大臣として選ばれました。理由は国民から支持されていたからだそうです。16年ぶりの復帰であるもののこのときはもう76歳となっていました。ですが、閣僚の議員買収問題のせいで国総辞職に至ります。その後、高熱を出し昏睡状態になり1922年1月10日にこの世を去りました。

大隈重信の性格

お客さんと座ってしゃべるのが好きだったそうです。なん1912年は年間で約2万3千人の来客があったそうです。ここまで来るとすごすぎです。いくら政治家であったとしても驚くレベルです。しかも、来客が少ない日は寂しがっていたらしいです。どんだけ人好きなんだよwwwwww。また、饒舌でトークがうまかったそうです。同じ時代のジャーナリストである伊藤痴遊などからも評価されるなど他の誰にも負けないと言われるほどだったそうです。こういう姿を見ると国民から人気を得るのもなんとなく分かる気がします。一緒にいて楽しいこと間違いないですしね。

りかちゅうさんはなんで早稲田目指したの?

番外編ですが大隈重信の記事なので話しますね。まずお父さんが早稲田行ってたので行きたいなと思いました。親の影響ってやつですかね?ただ、もし家から遠かったら親の影響であっても早稲田は目指しませんでした。あとは、変人だからこそ早稲田に行きたかったです。早稲田は日本一の変人大学です。理由はわからないです。おそらく、大隈重信は変人だからと思っておけばいいですかね?まあ、とにかく自分は変人だからこそ変人大学に行きたいと思いがあったんです。俗に言う変人には変人をってやつです。でも、玉砕しました←。原因は日本史と古文です。ボロボロでした。だからって浪人はしないで東洋大学に行きました。

まとめ

大隈重信の記事書いてて思ったこととしては国民には人気があったというのはなんか好感持てました。そりゃ、人柄的にも人気を得ること間違いなしですね。あとはメロンヲタクだった点には笑いましたwwwww。ただ、しごできではあったのに色々あって追いやられたのは残念だとは思います。やはり、人よりも目立つことをするとあれこれやられるというのは今も昔も変わらないですね。だからって、諦めずに色々する精神はすごいとは思います。さすが変人大学を作った人ですねwwwww。だからこそ、大隈重信の良さは広まって欲しいと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう