秀忠の母!お愛の方こと西郷局とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!徳川秀忠という人物はご存知てすよね?教科書にも載っている人物でもありますし。私的には関ヶ原で真田軍に負けてしまったことが印象に残っているんですけどね。私は真田ヲタクですからね。ただ、その話をしたら本題から逸れてしまうのでここまでにしておきます。それで本題なんですが秀忠のお母さんは誰でしょう?ヒントは「どうする家康」では広瀬アリスが演じています。その名もお愛の方こと西郷局です。彼女に関しては家康の後継ぎを産んだものの、38歳でいなくなってしまいました。しかも謎のままです。また、色々あった人でもあります。ではどのような人なのか?この記事にて話したいと思います!

西郷局のプロフィール

西郷局のことを知らない人もあるのかなと思われます。ですので、まずは西郷局のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 西郷局(お愛の方とも言われています)

生年月日 1552年

出身地 遠江国

没年 1589年7月1日(没年38歳)

備考

父や夫を相次いで戦で失うなどの辛い経験をした送った後に家康と出会い側室となりました。ただ、家康が天下を取る所を見ることができずにいなくなってしまいました。

西郷局の人生

以上が西郷局のプロフィールです。では彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

西郷局は1552年に遠江国上にて今川家に仕えていた西郷十八士の一人である戸塚忠春の子として生まれます。母は源姓土岐氏流三河西郷氏の西郷正勝の娘です。良い家柄に生まれたものの2歳で悲劇が起きます。それは1554年に勃発した今川・武田の戦いである大森の戦において戸塚忠春が戦死しました。記憶ない時にお父さんと永遠の別れを経験するなんてかわいそうです。ですので西郷局は母に連れられて母の実家に戻ることとなります。そのため、西郷局は祖父である西郷正勝の下で育てられることとなりました。

2.養父の服部正尚に育てられる

1560年に桶狭間の戦い後のどさくさに紛れて岡崎城に入った家康が独立の準備として三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛けていきます。それに対し、1561年に東三河の国衆の1家であった西郷正勝が今川氏真を見限って家康に属することを決意します。その後西郷正勝は家康との関係を強化するため、西郷局の母である西郷正勝娘を家康の家臣であった服部正尚に嫁がせることとします。この結果西郷局は服部正尚の下で育てられることとなります。

3.西郷義勝の継室となる

その後、お愛の方は結婚します。ですが、その夫に先立たれました。ですが、17歳となった1568年年に正室に先立たれた従兄の西郷義勝の継室となります。そして、西郷局はその後に西郷義勝との間に1男1女を儲けます。

4.西郷義勝の戦死

今川の領地問題の影響で家康と信玄との関係が悪化し1571年に武田軍が徳川領に侵攻してきます。西郷義勝が、菅沼定盈と共に戦に参加しました。ですが、この戦いで西郷義勝が戦死し西郷局は再び未亡人となってしまいます。

5.家康の側室となる

未亡人になったため西郷局が服部正尚の屋敷に身を寄せたころその妻である西郷正勝娘が家康の側室であった西郡局の侍女を務めていたためその縁で西郷局もまた西郡局を面識を持つようになります。それで、西郡局は美人で聡明な西郷局を気に入り家康に対して側室として迎えるよう勧めます。家康も西郷局を気に入り1578年に伯父・西郷清員の養女とするという形で西郷局を側室として迎え入れます。その時に西郷家の姫として迎え入れられたため家康の命で西郷局と改めています。それまではお愛の方でした。西郷局は美人かつ聡明だけでなく温和誠実な人柄であったため家康の信頼が厚く周囲の家臣や侍女達にも好かれていました。

6.秀忠・忠吉出産

西郷局は家康の側室となった翌年の1579年4月7日に家康の三男である秀忠を生みます。1580年9月10日に家康の四男である松平忠吉を生んでいます。ちなみに、その時なんですが築山殿は家康の正室の地位を失っていたと言われています。そのため、家康は築山殿の許可なく秀忠と松平忠吉を子として認知しています。

7.最期

1586年に西郷局は家康に従って駿府に移ります。その後、西郷局は1589年5月19日に駿府で死去します。享年は28歳でした(30歳にいなくなった説もあります)。

死去の謎

確かに2代目将軍の秀忠の母は西郷局です。ですが、突然いなくなりました。それ故に西郷局は後日ある噂が囁かれたそうです。内容は西郷局の死因は毒殺であり下手人はかつて築山殿の侍女であったとう噂です。ただ、これは憶測に過ぎません。ですが、少なくとも言えるのが周囲に妬み嫉みの感情を少なからず抱いていた可能性は高いのかなと思われます。

まとめ

私的に驚いたのは若くしていなくなってしまったことですね。秀忠の母という意味でずっといると思ったら。いや、でも待てよ。よくよく考えたら家康がの1番お気に入りにしていた阿茶局が家康がいなくなってから秀忠のそばにいたのかもしれませんね。もし生きていたら阿茶局だけが担当なのはおかしいですし。ただ、私的には死因が明確ではないのは気になります。まさかの築山殿絡みならばなかなか怖いなと。要するに、秀忠の生みの親であっても結末は悲しいものだったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう