家康の最初の妻!築山殿とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康の初めての妻は築山殿です。歴史ヲタクならばそんなの常識ですね。直虎でもどうする家康にも出てきましたし。ちなみにイメージとしては直虎の時の方が築山殿らしいですね。菜々緒のようなきつい感じと思えばいいです。要するに、史実では有村架純のようなおっとり系の雰囲気ではないということです(私的にはどうする家康の築山殿はキャストミスとは思っています)。悪な一面もあったという噂もありましたし。また、後ほど話しますが家康との仲もそこまで良くもないとか家の関係でごだればごだるほど仲が悪くなっていったみたいな話もあります。このように天下人の初めの正室はあれって思う点はありました。ただ、悪さだけではないとは思います。ですので、この記事にて築山殿のことについて話しますね!

築山殿のプロフィール

まずは築山殿とはどう人なのかをおさらいするためにプロフィールから見て生きたいと思います!

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名前 築山殿

瀬名姫とも言われています。築山殿のお父さんこと関口親永の元々の名字が瀬名なんですよ。それゆ故に瀬名姫と言われるようになったと推測されています。

生年月日 1542年

出身地 駿府国

没年 1579年9月19日(享年)

備考

家康の初めての妻です。桶狭間の戦いの後に家康が信長についたことから運命が変わったそうです。そして築山殿は武田とのつながりがあることから咎められて処刑されました。

築山殿の人生

以上が築山殿のプロフィールです。で彼女はどんな人生だったのか?

1.生い立ち

築山殿は1542年に今川家の重臣である関口親永という武将の娘として生まれました。ちなみにお母さんは今川義元の伯母とも妹ともいわれています。となると、お母さんがもし今川義元の妹ならば築山殿は義元の姪に当たる血筋を持っていました。また、家康よりも2歳くらい年上とも言われています。

※生まれた年についてや幼少時代の話は現時点でははっきりとしていません。1539年から1540年にかけて生まれたのかという説が一般的です。

2.家康との結婚

築山殿は1557年1月15日に今川家の人質の家康と結婚します。家康は築山殿と姻戚関係を結ぶことで三河国の支配権を維持しようする考えもありました。そして、築山殿は1559年に長男の松平信康を産みさらに1560年には長女の亀姫を出産しました。ただ、決して2人の夫婦仲はいいものではありませんでした。家康が今川家の人質という立場にあったことや築山殿が今川家の縁戚であったため築山殿が夫の家康を低く見る傾向があったそうです。いくら立場が上でも家康からしたら嫌ですよね。もちろん、関係が冷え切っていったと言われています。それもあってなのか。家康は生涯を通じて多くの側室を持つこととなりました。

3.立場の変化

1560年5月19日に桶狭間の戦いが起こり今川義元が討たれてしまいます。家康は岡崎に帰還することになりました。さらに、1562年3月には家康と信長が同盟を結んだ事によって今川氏真が怒りました。そのため、築山殿のお父さんこと関口親永が自分の正室と共に自害しました。そこで、築山殿は今川氏真を説得し、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換をするという形で岡崎に移りました。しかし、居住したのは岡崎城内ではなく城外の現在の西岸寺辺りにあった寺院です。

4.子供の結婚

1567年息子の信康と信長の長女こと徳姫が9歳同士で政略結婚することになります。1570年に信康が嫡子として岡崎城に移された際に、築山殿岡崎城に入ることになりました。それもあって家康は築山殿には見向きもせず側室との関係ばかりが深まっていました。しかも、家康は身分の低い町人の女性や下級武士の娘などを側室として迎えています。どうやら築山殿に対する当てつけであったとも言われています。

5.どんどん最悪になる立場

築山殿が移り住んだ岡崎城には家康はほとんど寄りません。家康のお母さんこと於大の方と徳姫と一緒に暮らしていました。一方家康は浜松城を手に入れたことでほとんどの時間を浜松城で過ごしており、これは築山殿にとっては夫がいないだけでなく周囲の家臣や侍女は決して信用することのできない敵だらけの状況でした。これは築山殿の立つ瀬はありませんでした。

6.息子の存在

築山殿の立場が弱くなっていく中唯一の希望が信康の存在でした。ですが、信康の正室である徳姫のことは気に入っていませんでした。なんか徳姫には日頃から冷たい仕打ちをしていたと言われています。
さらに、信康と徳姫の間には、2人の女しか生まていません。嫡男いないのは致命的です。そのため、徳姫に嫌味を言うだけでなく信康に側室を持つことを勧めます。それで、このとき側室となったのが織田家の敵でもある武田家の家臣の娘です。それだけで話は終わりません。信康は側室を寵愛しました、そのため、徳姫と信康は大きな亀裂が生じるだけでなく徳姫はあることをします。なんと徳姫にとってお父さんでもある信長に訴え出るという手段に出ます。内容は今までのことだけではないです。信康と築山殿が裏切って武田家と密通しているということを言いました。要するに、築山殿が武田勝頼と内通しているという話を信長にしたということです。

7.最期

1579年に徳姫が築山殿の信康が武田家との内通があったことなど12ヶ条訴状を信長に送ったことから信長は激おこです。もちろん信長は家康に信康の処刑を命じたと言われています。一方、築山殿は1579年8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村で自害を迫られます。しかし、築山殿が自害を拒んだため家康の家臣らに首をはねられ殺害されました。また、信康は1579年9月15日に二俣城で自害しました。

家康とは仲が良かったの?

子供も産んでいますし2人の仲は始めから悪かったとは言えないでしょう。ですが、

しかし、その後の岡崎城外での生活が1570年まで続いた事や家康が浜松城へ居城を移していることを踏まえると桶狭間の戦い以降の夫婦間のコミュニケーションみたいなものはほぼ無かったのではないかと思われます。

また、江戸時代初期に記された「当代記」という資料には築山殿は家康が今川家を裏切ったことで関口親永が責任を負わされて切腹したことを強く恨んでいたとされています。まあ、少なくとも家康が今川家を裏切らなければ2人の仲が悪化するような事はなかったという推測はあるということですね。

まとめ

どうする家康ディスりになりますがなんで築山殿な有村架純なんですかね?見かけ的に菜々緒みたいな顔の方がいいと思います。なんかその時点でキャストミスですね。あと徳姫いじめは思う以上にひどいなと思いました。それだから制裁されたのかなと。まあ、とにかく家の都合はあったとはいえなかなかゲスい人と思いましたね。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう