紫式部のライバル!清少納言とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!紫式部のライバルと言えば清少納言ですね。2人は性格も逆でありかつ同じくらいのタイミングに書籍をリリースしていたことからライバル視していたそうです。それもあって、文面上でお互いのことを悪く言っていました。とは言えども、みんなが思うよりもバキバキでもないです。これは意外ですね。また、話は違いますが清少納言は本名ではないです。小納言という地位がわかる人ならば察せるものの、マジかよと思う人もいるはずです。このように、清少納言は有名ではあるものの大半の人が知らない一面はあると思います。ですので、この記事にて詳しく話したいと思います。

清少納言のプロフィール

清少納言という名前は学校でも聞いてはいるものの知らない点はあると思います。ですので、初めに彼女のプロフィールからみましょう!

通称 清少納言(本名の話は後ほどしますね)

出身地 未詳

生年月日 966年と言われています。

没年 1025年と言われています。(享年59歳らしいです)

備考

枕草子の人です。鋭い感性が光る日本を代表する随筆だそうです。気が強く明るい性格だそうです。それもあって、セレブ貴公子に負けない機転と教養でサバサバしていたと言われています。あと、どうでもいいかと思いますが清少納言は冬が好きだそうです。

清少納言の本名

清少納言という呼び方が有名だからこそ本名なのって思う人はいますが実は本名ではありません。芸名だったそうです。元ネタとしては「清原家」の身内に「少納言」という位の人がいたからそう呼んだそうです。となると、本来は「清原家の少納言」という意味で「清 少納言」と呼ぶのが正しいと思います。でもなんで芸名なのか?なんか当時は身分の高い女性でない限り本名を公開することはなかったからです。ちなみに本名は清原諾子という名前だったと言われていますが確実でもないそうです。

清少納言の人生

以上が清少納言の概要です。では彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

清少納言は966年に生まれたと言われています。その頃は平安時代が中期で遣唐使の中止から100年以上が経っているだけでなく唐が滅んでいました。そのため、日本独自の国風文化が生まれてきていた頃でした。ちなみに、清少納言のお父さんは三十六歌仙の一人である清原元輔です。「後撰和歌集」の編纂者でもあります。ただ、清原元輔はトップに君臨するような地位ではなく貴族の中では中級ぐらいの地位です。ちなみに、清少納言8歳のとき、父が周防の鋳銭司になったので周防に引っ越したそうです。

2.結婚と離婚

周防で4年間過ごした後清少納言は京都に戻り15歳で橘則光と結婚しています。981年のことです。そして、982年に橘則長を産みます。ですが、橘則光と次第にうまく行かなくなり10年ほどで離婚してしまいます。

3.再婚と藤原定子の使用人になる

親子ほど年の離れた藤原棟世と再婚し女流歌人として知られる子馬命婦を産みます。そして、27歳のときに一条天皇の奥さんの藤原定子の女房となります。どうやら才覚を認められ、歌や漢詩などを教える家庭教師のような役目で雇われたそうです。ちなみに、仕事内容は担当する宮廷の男たちとの取り次ぎです。清少納言は才気煥発で得意の漢詩の知識を駆使したため男たちと対等に機知の飛んだ応酬が出たそうです。

4.定子の出家

清少納言が定子の女房となって2年も経たないうちに定子のおとうさんこと藤原道隆が病没します。道長は宮中の覇権を握るために道長の娘の彰子を一条天皇の2番目の奥さんにさせるだけでなく定子は失脚させました。そのため、清少納言は道長と通じているという噂されたため自宅に引きこもります。その間に定子は出家してしました。

5.定子の復活と清少納言の辞職

ですが、その2年後に定子は一条天皇の願いで宮中に呼び戻され彰子と定子の2人が奥さんとされるということになりました。そのため清少納言は定子からの誘いを受け、再び定子の下で働くようになります。その間に定子は4年後に内親王を出産したものの、。産後の肥立ちが悪く24歳という若さで崩御しました。そのため、清少納言は勤めを辞め藤原棟世の領国である摂津に身を寄せたのち東山で過ごしたそうです。おそらく、それくらいの時に枕草子が完成したとは言われています。

5.最期

その後の清少納言の詳細は不明です。女性だと史料という史料がないんですよね。そのため、清少納言の死因は現在明らかになっていません。ただ、清少納言は平安時代の1025年ごろに藤原棟世がいる摂津で最期を迎えたと言われています。

 

枕草子とはどんな作品?

「春はあけぼの」で有名な枕草子ってどんな作品なのと思う方もいるのかと思われます。私も詳しく知りませんが枕草子とは日本三大随筆や世界初の随筆です。作者目線の思想や感想を綴ったエッセイのようなものと思えばいいです。ならば、どんなことに対して感想を書いたのって?内容は主に2つあるようです。1つ目は日常生活や身の回りの事です。「春はあけぼの」など好みの季節から流行のファッション、イケメン貴族の振る舞いや色恋沙汰などを書いています。2つ目は、一条天皇の奥さんである、藤原定子のことを中心に宮中での雅な様子と定子との思い出話を書いたそうです。

清少納言と紫式部

清少納言と紫式部は仲が悪いって言われていますよね。歴史漫画にもそのネタありましたからね。では史実ではどんな関係だったのか?

1.史実では面識なし

清少納言は一条天皇の1番目の奥さんである藤原定子の元で働いていました。一方で紫式部は一条天皇の2番目の奥さんである藤原彰子の元で働いていました。このように、同じ女流作家であり同じ一条天皇の奥さん(奥さんとはいっても人は違いますが)の元で働いていた感じです。となると、面識があってライバル視していたように思われがちですが当時は面識がない感じです。また、天皇家で働き始めたのも文学作品を書き始めたのも清少納言が先のようです。

2.文面での悪口

確かに、バトルの時は清少納言は紫式部本人に対しては何も残していません。ですが、紫式部の夫である藤原 宣孝の衣装がド派手であると枕草子に書いています。まさかの旦那いじりとは笑いました。一方で、紫式部は紫式部日記の中で清少納言の事を漢字を間違える人間は将来ロクなことがないと反撃しています。要するに、史実では直接対決はなかったものの、文面でのバトルはあったのかと思われます。

私と清少納言の共通点

ちょっとした無駄話です。清少納言と私には共通点があります。それは男好きであることです。紫式部と清少納言の違いとネットで調べていたら清少納言は男好きということが書かれていましたね。これを見て仲間だと思ってしまいましたwwwwwww。だからって私は清少納言と仲良くなるとは限らないですけどね。男好き同士何かしらあってもおかしくないと思っています。

まとめ

思った以上に波瀾万丈だなと思いましたね。いい位に採用されたのに採用先がゴダゴダ状態になるなど。そんな時に枕草子を書いていたってことですね。私的には色々あった人生だからこそ枕草子が書けたのかなと思われます。私はちゃんと読んだことないですが随筆だからこそ宮中のリアルなどが生々しく書かれていてもおかしくないとは思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう