甲斐の最強武将!武田信玄とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!山梨県に住んでいる方ならばあの戦国武将を知っていることでしょう。山梨県民からしたらそんなの常識レベルです。その名は武田信玄です。上杉謙信のライバルと言われている人ですね。引き分けで終わったそうですが。信長も戦うことに苦労したと言われるくらい強かったそうです。もし長く生きていたら状況は変わっていたかもしれませんね。その強さもあってなのか武田出身の家は戦に強いです。私の好きな真田家も武田家の家臣でした。とにかく、強い人材を出せるくらいに信玄は強かったということです。では彼はどんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

武田信玄のプロフィール

まずは信玄のことを知るためにプロフィールを見ていきたいと思います!

名前 武田信玄

信玄は出家後の法名で元は武田晴信だそうです。

生年月日 1521年12月1日

出身地 甲斐国(今の山梨県です)

没年 1573年5月13日(享年51歳)

備考

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男です。武田ってこんなに長い歴史があるんですね。なんか守護大名から勢力をつけたことで戦国大名化して国内統一を達成したそうです。

武田信玄の人生

以上が武田信玄のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?

1.父親を追放する

武田信玄は甲斐国の守護こと武田信虎の子として誕生しました。幼名は勝千代で、元服後は晴信と名乗りました。ただ、現代では出家してからの名前こと信玄が通称ではあります。幼少期の頃の話はあまりないです。ですが、自分の父親を追放された有名です。信玄のお父さんこと武田信虎は災害や飢饉で困窮しているのに合戦を続けていました。そのため、甲斐の領民は苦しんでいました。そんな状況を見た家臣は1541年に信虎を今川義元のもとへ追放し信玄に跡を継がせたそうです。

2.上杉謙信をライバルになる

後を継いだ信玄は信濃に侵攻し村上義清を討った後に今川義元、北条氏康と同盟を結びます。その影響で1553年8月に信玄のライバルと言われる上杉謙信と川中島合戦をしました。足掛け12年にわたり5回対戦したそうです。その後、上野にも勢力を広げました。そして、今川義元が没すると駿河、遠江も侵攻しました。

3.無念の病死

上洛を目指したともいう信玄は三方ヶ原の戦いで家康・信長の連合軍に勝利します。家康は信玄に完敗を喫してしまったことで脱糞してしまったそうです。その話は有名ですよね。このように、戦ではすさまじい強さを誇った信玄です。ですがある不幸がありました。それは出陣前から患っていた病気が悪化したため撤退を余儀なくされました。ただ、甲斐まで戻ることなく途中の信州伊那の駒場で没しました。最後の最後まで頑張ったんですね。それもあって死ぬ前に「三年の間我死たるをかくして」「明日は瀬田に旗を立てよ」などの言葉を残しました。

武田信玄の功績:戦

信玄が強くなったのはある秘訣がありました!一体どのような秘訣があったのか?

1.兵法を学ぶ

信玄は天才兵略家こと孫武が書いたとされる「孫子」から兵法を武学びました。風林火山もそのうちの1つです。風鈴火山の正式名称なんですが疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山なんですが実は孫子の中にある軍の進退に関する記述から参考にしました。このように、中国大陸で編み出された用兵の極意を研究し自軍に生かしていったことで信玄が強くなったと思われます。

2.兵法の実践

信玄は兵法を研究しただけではありません。実践もちゃんとしていました。その際にライバルであった上杉謙信の存在がキーパーソンでした。毘沙門天の生まれ変わりと称されるほどの戦上手だった謙信と川中島の戦いで実践したそうです。謙信とは戦い合った仲ですが強くしてくれた存在ではありますね。その気持ちは謙信も同じで信玄の死を知らされたとき、その死を惜しんだそうです。

 

3.信頼関係を築く

信玄は信頼による結束を重視した武将であります。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という思想がまさにそうです。信頼によって結びついた人は、強固に作り上げられた城に匹敵する意味なんですが実際にそのやり方を取り入れていました。なんと信玄は城という城は作ることなく山梨県甲府市に躑躅ヶ崎館と呼ばれ居館を構えただけでした。それだけって思いますよね?これは信頼関係があったからできたことです。

 

武田信玄の功績:内政

信玄は戦だけではなく、内政にも力を入れていました。では具体的にどのようなことをしたのか?

1.治水

甲府盆地は、複数の川が合流しています。そのため、河川の氾濫による水田の被害に悩まされていました。そこで、信玄は河川の氾濫を治め治水に成功します。ちなみに信玄堤と呼ばれる治水灌漑工法は後世に大きな影響を与えるものたっだそうです。また、この功績は米を増産させることにもなりました。

2.一生懸命を大切にした

信玄が成功させた治水は多くの困難が伴います。このような事業を成功させるには人の心をいかに掌握できているかが大きな鍵となります。そこで、信玄は一生懸命の大切さを説き実行したと言われています。このようにしたことで、信玄は強固な君臣関係を築き領民に慕われました。要するに、日々の積み重ねによって本質的な国造りに成功したということですね。

まとめ

信玄は色々勉強をしたんだなと思いました。孫氏から学んでいたとは思ってもいなかったです。風林火山がそこからだなんて初めての気づきでした。また、それだけではなく信頼関係を大切にしていた武将であることを学びました。謙信が信玄がいなくなった時に惜しむのも分かります。このようにその2つを大切にしていたからそこまで強くなったのかなと思われます以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう