家康と戦った女性!お田鶴の方こと椿姫とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!実は家康と戦った女性がいます。女城主は直虎だけではないんですよ?その名前はお田鶴の方という方です。ちなみに彼女は家康の正室こと築山殿の従姉妹関係にあたります。え?それなのに家康と戦うことになったのって?そうなんですよね。家の関係上戦うざる得ない状況でした。それで彼女の結末なんですが若いうちに家康に討たれてしまいました。家康が遠江に攻めてきたから討たれたそうです。儚い人生ですね。では一体彼女はどんな人だったのか?この記事にて話したいと思います!

お田鶴の方のプロフィール

まずはお田鶴の方のことを知るためにプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 お田鶴の方(椿姫が別名です)

生年月日 1550年

出身地 三河国

没年 1568年12月

備考

西郡局とは姉妹関係です。また、築山殿とは従姉妹関係でもあります。

お田鶴の方の人生

以上がお田鶴の方のプロフィールです。では彼女は一体どんな人生を歩んだのか?

1.お田鶴の方生まれる

お田鶴の方の生年月日は正確ではないですが1550年という説が有力ではあります。ちなみに、お父さんは鵜殿長持でお母さんは今川義元の妹です。ですので、家康の正室こと築山殿とは従姉妹関係にあたります。ただ、どんな幼少生活を送っていたのかは分かりません。少なくともわかることはお田鶴の方は今川の家臣・飯尾 連龍と結婚したことです。飯尾連龍とはは曳馬城の城主です。

2.飯尾連龍が今川を裏切り家康に内通

1560年に今川義元が桶狭間の戦いで討ち死になりました。そして、家康は今川家を去り信長と同盟を組みました。これは家康のみではないです。遠江の国衆の間でも今川家を裏切っていたため混乱していました。夫の飯尾連龍もそのうちの1人です。なんと家康に内通していました。それを知った今川氏真は1565年12月に飯尾連龍を殺しました。長男・辰之助も殺されたそうです。一方でお田鶴の方は残った家臣とともに曳馬城に立て籠もりました。

3.家康と戦う

家康は武田信玄と同盟を組みました。その際に今川家を攻めてその領地を徳川と武田分けようという事になりました。そのためにまず1567年に徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として曳馬城に派遣しました。その際に城を明け渡せは助けるとお田鶴の方に要求しました。ですが、お田鶴の方は拒否しました。ですので、家康は曳馬城を攻めました。しかし家康が城を攻め落とすことができず一旦は撤退しました。

4.家康に討たれる

再び家康が攻めてきました。その際に曳馬城側も200人の犠牲が出ました。また、曳馬城の二、三の丸が攻め落とされました。それでも、お田鶴の方は次男・辰三郎とともに徹底抗戦を続けます。そして、家康と直接対決をする時にお田鶴は緋色の鎧と兜を身に着け、武装した侍女7、8人と兵士50~60人をひきつれ徳川軍の前に現れました。このように必死で戦ったものの、最終的には全員討ち死にしたと言われます。その後、家康は曳馬城に入り、浜松城と名を変えました。

 

椿姫と呼ばれている理由

お田鶴の方は椿姫とも呼ばれています。それには理由があります。実はお田鶴の方が討死したと知った築山殿は西来院の和尚と共に読経供養を行い塚の周りに椿を植えました(西来院には築山殿の廟堂があります)。本数はなんと100本を超えています。また、椿が綺麗に咲いた後も築山殿は足しげく通いました。従姉妹を大切に思っている証拠ですね。自分の夫に殺されるなんて苦しいことでしょう。一方で家康が「いつまでも悲しんでいてはいけない」と築山殿の行動を止めようとしました。ですが、築山殿は「他人事ではありません。全てが私に関わることなんです」と言い返したそうです。

まとめ

桶狭間の戦いの後にこんな展開があるとは思ってもなかったです。個人的には家康のところには行かなかったんだなと思いましたね。だって自分の夫が家康と手を組もうとしたんですから。きっとお田鶴の方は今川との血縁があるから最後まで貫いたんでしょうね。この生き様はかっこいいと思います。だからこそ、どうする家康でも話題になったんだなと思います!以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう